てへりんこのベトナム旅行記


 
 ベトナムはハノイ。月の四分の一を過ごしたベトナムの最後の夜。インターコンチのベランダ。前方右斜めの部屋の白人の女は昨夜遅くに裸で夜風に当たりながらドラゴンフルーツの種をプールに飛ばしていた。その部屋から見た前方左斜めの部屋の日本人の女、そう私は、このベトナムで旦那に離婚を切り出した。チャンティエンプラザの前で泣いて騒いではもう日本に帰ると。くだらない都会のホテルの一室に泊まるありきたりな喧騒。男女。ベランダで久しぶりに紙煙草の煙をくゆらす。雷が鳴っていた。その稲妻は目下に広がる西湖に飛び込んでいく。稲妻はその力を衰えさせることなく水の中に還って行く様子を見て、私も元居た場所に還れたらいいなと思う。願う。少しの長い間、そんなことを思いながら生きていたら、ベトナムに辿り着いた頃には水辺に近付くと自然と心の内が蕩出てしまうようになっていた。ベトナムは私を素直にさせ、私を元いる場所に導いてくれる。そんな期待を込めていた。

 フーコック島で生まれて初めて陽が落ちる様子を眺めるだけの時間を過ごした。濡れた椰子の木を横目に流しながら平泳ぎをしていた。泳ぎながらも溺れていた。冷えたサイゴンビールの刺激が柔くなるまでの数分間。一日を思い返して愛でるにはあまりにも速すぎる速度で太陽は真っ直ぐに脚から海に沈んでいく。また明日太陽が現れるまでの不在時間の全てを、太陽は我々に託し、世界は暗闇の中に落とされていく。暗くなった世界で交わされた手探りの言葉の応酬は、明日またあの太陽によって焼き尽くされる。その太陽の力さえも跳ね除ける夜が本当の夜だとするのならば私はベトナムで何度本当の夜を過ごしたのだろうか。フーコック。ベトナムの流刑地。ココナッツプリズン。魚の形をした大きな雲が泳いでる。私はまたここでもどこかに還りたいと願い、相変わらず目はよく見えず、溺れ続け、水は口の端から零れ落ち喉はいつまでも渇いてる。それはその男の背中にしがみ付いて跨ったHONDAのPCX125のリアシートの上なのか。娘の隣、身体を丸めて忍び込むベビーベッドの中なのか。島国には無条件にゆっくりと時間が流れている訳ではない。私の身体の真ん中を、時間が、海の匂いが、風が、残酷に通り過ぎていく。

 そして、夜が来て。私は恨むのだ。恨み腐り、わざと無邪気に振る舞い、人目のないところで濁った涙を流す。時に人は空っぽになるのだろう。空いた身体に私は偽りの精神を埋め込んだ。何かを恨みながら愛しい我が子を育て、愛した男の帰りを待つ生活は余りにも私の柄でも無かった。ある程度の中途半端な自立は、対相手に対しての余白または他人である証と見做していた私は、余白を持たないことが、正真正銘の愛のお話だと思っていた。専業主婦の持つ暗い側面にまんまと覆い尽くされた。肩の先っぽの方から砂の塔が崩れていくようにサラサラと自分が小さくすり減っていく様な感覚がすぐ右後ろを追いかけてくる。その歪な型に自分を押し込み続けた未来に心躍る情景など何もない。娘に自分のお金で葡萄を買って食べさせてあげたい。もう少し自分で生きてみたい。私は車を運転出来て英語が話せる。あんなに可愛い娘が居て、顔の良い歳下の男と中目黒のソルファで遊んでる女よりは、あの娘が舞散らす金平糖の煌めきを集めてると自負もしている。だからもう少し強くなりたい。しっかりしたい。自分の力でやってみたいことがある。あの娘と。その男と。

 私はひとりでハノイの街に出る。おむつもミルクも持たず街に出る。バイクのシートに寝転ぶ若者と目が合い、彼は起き上がり、乗せていくよと後部座席を指差して気怠そうにまた寝転ぶ。対角線上に行き交う、ブレーキと発進を繰り返す車やバイクはたかが外れたメリーゴーランドのようだ。その濁流の突っ切って反対側へ。絶えず鳴り響くクラクションに追い立てられるように下水の匂いが立ち込めるアスファルトを踏んでいく。この通りを、ハノイの街並みに溶け込んで、全てに勝手に絶望して身動きが取れなくなった女をもうすっかり辞めて、街を闊歩する強い女に擬態をして、バイクと車の濁流を通り抜けていく。足にかかったココナッツ。喧騒に負けぬよう人々は大きな声で話す。またその声を、クラクションが、時たま降り出すスコールの雨音がかき消していく。私の後ろを犬が着いてきた。犬の後を裸足の子供が着いてきた。その後ろをココナッツを大量に積んだバイクが着いてきて、道端の露店で肉を買った。全ての事象を、母親になったからだということにするのは至って簡単で尚早だ。全ての事象を、まだまともに話すことの出来ない娘のせいに出来てしまう、それは、母親の当たり前に持ち合わせている愛の中に潜む無自覚な陰鬱さが引き起こす、最も最初に起き得る自分の子供に対する最大な無視だ。母親になったことを後悔したことはない。ただ、信じてきたおとぎ話に綻びは生じはじめ、その綻びを見逃し三振スリーアウト。私はひとりで見たことないおとぎ話の外の世界にまで流れ着いてきてしまっていたのだ。随分と暗いところまで来てしまった。私自身もこの町の路地も。ハノイの街で私が見たかったものを一人で見た。初めてのベトナムで一人で過ごすことが出来た。私の身体の中にも小さな波紋が立ち、その波紋は渦になりやかて濁流を起こす。心臓が大きく波打つ。血飛沫が飛ぶのを感じる。思い出した。取り戻した。取り戻すことが出来た。この通りを、娘の手を引いて、渡れるような母親になりたいのだ。何処にいるのかはきっとあまり問題では無い。どんな姿勢を、その姿勢から放つ強い光を、どこに向けるのかが大切なことなのだろう。いつでも立ち戻りたいのはハノイのその日。私にとってのハノイは誰かにとってはカスの街。それで良いのであろう。何処に居たかはあまり重要ではない。

 娘を寝かしたあとのベランダ。時たま光る稲妻だけがその男と私のお互いを照らす。雲海に包まれたネオンは霞んで滲み、大きな水墨画を見ているようで、私と彼に力は貸してくれそうにない。夜景に頼るには状態はあまりにも深刻だ。太陽が沈んだ夜の世界で頼りになるのは稲妻の光。自らが遠い場所に置いたその男がいつも近くにいたことに気付く。稲妻が光った時、二人の間には八角テーブルが一つだけ。ベトナムは確かに私を素直にさせ、私を元いる場所に導いてくれた。そんな期待を込めることが出来て良かった。私が希望を持てる人間であるということを思い出すことが出来て良かった。ハノイの最後の夜。霞むネオン。太陽は沈んだ。その暗闇の中、稲妻の光を頼りにまたその男を見つけることが出来て良かった。その男は私に、楽しかったと言った。そして私の肩に三回触れた。私も肩に三回触れ。同じ回数、身体に触れ合った。これが私のハノイ。タンロン。昇龍。







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