2023/10/22



 元夫ととの思い出の中で最も大切なものとしているのは意外にも終わりの方の頃のことだ。最後のベトナム。フーコック島での最終日。これから離婚をするであろう二人はHONDAのPCX125にニケツをして島を縦断した。走れば走るほどに振動がその男を好きになった理由を溢れ出させる。走れば走るほどに砂埃がその先を、未来を見えなくさせた。これから離婚をするであろう二人はティエンソンディン山に登る。ぶら下がって揺れる翡翠色の蛇は頭から私の肩から腰にかけて流れていく。その二人にはもう話すことはないのだ。翡翠色の蛇を見失って、ハイソックスを履いた白人とすれ違う。その男は前を行く。幸せになって欲しいと思う。頂上に着く。これから離婚をするであろう二人は同じぐらいの風を浴び同じ景色を見る。"離婚するんでしょう" その男は聞く。言葉より涙が、その溢れる涙よりも早い涙があることを知る。涙にしかならない言葉があることを知る。私は彼を幸せにしたかった。しません。私はそう答える。これから離婚をするであろう二人は来た山道を下る。夕陽を見てビールを飲み話をする。それらのこと全てに私は涙にしかならない言葉を紡ぐ。草と土と白の煙。私達はよく山の中にいた。その後これから離婚をするであろう二人は本当に離婚をする。私は彼のいってきますを無視して荷物をまとめ部屋を出る。私の居なくなったあの部屋に確かにあった私の不在を彼は何度だって無視をする。そして時は止まり、今日また動き出す。今日、彼と娘は丸二ヶ月振りに再会し芝生を歩いて観覧車に乗る。私は一人でビールを飲む。久しぶりにピアノを弾いた。娘の服を丁寧に畳んだ。あの窓から見える緩やかな下り坂に青いプジョーが停まる五時を待つ。ティエンソンディンの頂上。あの人は涙を流さずに泣いていた。丸二ヶ月振りの娘は父親を見て泣いた。身体を仰け反らし、泣き、逃げようとした。ティエンソンディンの頂上。彼は泣いた私と娘を抱き寄せた。ティエンソンディンの頂上。『しないんだってさ』彼はそう娘に声をかけた。娘を真ん中にしてもう一度手を繋ごう。娘のことは一緒に幸せにしよう。そう約束をして今日再び動き出したこの時間。だから私はあのティエンソンディンを忘れなくてはならない。泣いて泣いて泣いて。忘れなくてはならないのだ。あのベトナムを。フーコックの夕焼けを。インターコンチのプールの深さを。確かに愛したことを、愛されたことを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?