奴が死んだ


 pm5:25靖国通りは市ヶ谷あたり。桜の開花とその男が私をぶん殴るその時と、どちらが先か。桜は今にも咲き乱れそうだ。あと一人、この東京のどこか、どこかの女が男の脚に縋りながら、「実家と縁を切るから許して」と泣き喚きさえすればこの桜は咲き乱れることだろう。桜の養分は女の涙だ。それがあってこそ、桜は美しく男と共に散っていくのだろう。外濠公園遊歩道沿いに停車した白いグロリアの中から、助手席に身を乗り出して私は桜を見上げるのです。桜の蕾は夜露をたたえ、死なば諸共たとえ苦海に散りしその時さえも、夜露死苦、なんだか私達みたいね。私はなんだか嬉しくなる。私だって本当はさ、ちょっとは気に入ってるのよ。え?そう?えへへ。シーツ?汚したの私じゃないってば。やだもう、なあに?今日ご機嫌いいのね。その瞬間、運転席の窓を誰かが叩く。ジッポの角で器用に3回。コン、コン、コン。あの男が帰ってきた。次の瞬間、私はあろうことか運転席から引き摺り下ろされぶん殴られる。その男の名は櫻井。小柄でいて、目がひどく悪い。私と同い年のあまりにも出会ってはいけぬそんな男の子だ。色付き眼鏡の中でビー玉のように収まった瞳は何かの罰で埋め込まれた義眼のあり様だ。この世に産み落とされた罰。櫻井は暗い岩壁の陰に隠されているべきだあった。櫻井が着ているベロアのトラックジャケットの右胸あたり、私は頬を寄せ、何かが当たる。また内ポケットにサバイバルナイフ仕込んでる。春の夜風の中、脳を揺らしながら。私は櫻井に問うのだ。『なんで生まれてきたのよキチガイ』櫻井の胸に触れている左耳が熱い。これは痛みではない。熱情なのだ。『ナイフ。嫌だよ私』私はこの男のことがはっきりと好きなのだ。もうすでに。私が回す地球儀はいつも櫻井が癇癪を起こしながら蹴り上げるガードレールの隣で止まる。私はいつもそこで立ち尽くし、唇から流れる血が固まるのを待つ。櫻井は私の唇を噛み切ってしまうのだ。一昨日は、あろうことか二人で午前10時に錦糸町の喫茶店にいた。櫻井がモーニングのBを頼む。私は『私も』と櫻井に続く。そのあと私はグロリアのトランクの上で殴られる。お前は簡単に『私も』と言うけれど、俺をハメようとする連中にも『私も』『私も』『私も』とおべっか使って、そしてそのまま海でさえも簡単に渡り、俺の元から居なくなるんだろう。そんな理由で私を殴った。そしてグロリアの運転席を後ろに倒したままこの世の終わりかのように愛される。櫻井の律動に合わせて振り上げられた私の脚が揺れる後部座席の窓の外。窓の外で火炎瓶が飛び交っていないか疑うほどに。私がこんなにも馬鹿なのは私にクソみたいな穴が開いているからという、そんな理由で私は櫻井にこんなに愛されてしまう。私が馬鹿なのは馬鹿に生まれたからだ。馬鹿に生まれたからこそ今、こうして。この櫻井、狂気の男。櫻井が私の痣を撫でる時、櫻井のビー玉のような真っ暗な瞳にはついに穴が開いてしまう。私はその穴に向かって呼びかける。おーい。聞こえますか。その洞穴からやまびこが返ってくる。"僕はお父さんみたいなかっこいい警察官になりたいです" 幼き櫻井の少し鼻にかかる声だ。今夜の櫻井も私を殴った。一昨日私をミンチにしたこと詫びたかったという理由で。本当に迎えにきた私の乗っているグロリアを見てここで死にたいと、ここで死に、そして生まれ直したいと、生まれ直したら、幼き櫻井に拳を振り上げ続けた彼女のこと、母親のことを、抱きしめてあげたいと。そう思った櫻井は私をまた殴ったのだ。櫻井のベロアは汗で濡れている。セブンスターと埃と死んだ川の匂い。その中に果てしなく遠くほのかに香るのは夜露に濡れて強さを増す桜の香り。あ、開花だ。櫻井、桜が咲いたね。櫻井は人を殺してきたばかりだ。『頑張ってね』馬鹿な私は櫻井をそう送り出した。私たちは出逢ってたったの3日。お別れまではきっとほんの数時間。職質にあわぬよう、私は腫れて潰れた右眼を長く伸ばした爪で引き上げながらだらだらと都内中舐め回すように車を回す。櫻井は運転しない。口を開けたまま窓の外を虚ろに眺めるのだ。『電卓』櫻井はそう言い、ダッシュボードの中から電卓を出し、私に渡す。『止まれ』私は曙橋のペルシャ絨毯屋の前に車を止めようとして幅を寄せる。左にゆっくりと寄り、夜の闇に息を潜めるグロリアはまるで櫻井そのものだ。そしてその心臓を握るのはこの私なのだ。『600万』櫻井はそう言ったあと、無作為に数字を羅列し、私はその数字を引いていく。数字は引かれていくばかりで勢いを失っていくのだ。櫻井は数字を羅列する代わりに口笛を短く吹いた後にダッシュボードを蹴り上げる。私は電卓を見つめる。22万7千円。中絶したら消えてしまうような金額だ。『キモイな』櫻井の手が私の痣に伸びる。右頬に、左腕に、左脚に、そして顎に、口の端に。私の息はみるみる上がる。カーステレオの音量は最大にまであげられ、グロリアのオーディオが音圧に耐え切れず音は割れだしひずみの中に真っ逆さま。ラジオCMの希薄な明るさに追い立てられるように私の身体は櫻井のあの瞳を求めてしまう。何もキモくないよ櫻井。次の瞬間、音のひずみの中でもあまりにもハッキリと。『前の運転手、轢いちまえよ』櫻井の声はウエハースのように軽い。前方注意。前方注意。停車車両あり。タクシーと思しき停車車両あり。ドライバーは車外にて街路樹の桜を仰ぎ見ている様子。少し背伸びをし、携帯で桜を撮っている。ねぇ、櫻井。櫻井は桜を見て、誰を思い出す?『轢いていいよ』櫻井って、どんな子が好き?『俺が全部やるから』櫻井。『ついてくるだけでいいよ』面倒くさいよ、櫻井。ほんの3日前。東新宿の交差点。真夜中。本当ならばすれ違って二度と会わないはずだった。あの時、あの瞬間、私たち、そうすることがまるで決まっていたかのように、そうでないと、この交差点を抜けることが出来ないかのように、私たち手を繋いで走りだした。街の流れはスローモーション。少し前を走る櫻井の小さな背中を追いかけながら自転車を何台も倒した、若い女の子にぶつかってはタクシーにクラクションを鳴らされた。私は幼少期、こんな風に真夜中にひとり駆け出したことがある。その真夜中に私の先を走ってくれる人はいなかった。ドラム式洗濯機の中に猿轡をはめた母親が詰められていたあの夜。ハローキティのトレーナーを着せられた母親が。そこに。いて。薄笑いをして。知らない男が土足のままでリビングを歩いていた。触れるものを指で床に弾き落としながら。pm9:37 櫻井。pm9:39 櫻井、好きって言ったらどうする。pm9:43 pm9:46 ママのあの男より櫻井のが良い男だよね。顔綺麗だし、ちんこもでかいし。ね?そうだよね。このクソ野良犬がよ。pm9:57 なんで私だったの。好き?櫻井ってお魚食べないから目がそんなに悪いんじゃない?pm10:03 pm10:24 『俺は別に』『何よ。やるよ』『俺は別にお前のことを』『何がだよ。分かってるよやるって』『お前のこと欲しくて欲しくて手に入れた訳じゃないから』アクセルって踏み切ると、ガッタンて。音がするよ。櫻井。

 ドン。櫻井の綺麗な手がRにギアを入れる。私の右足はアクセルを踏んだまま。グロリアは隣から伸びる櫻井の腕が描くハンドルの弧線上を美しく滑っていく。時間は飛ぶように流れていく。我に返る隙間を埋めろ。目の前のこの男を愛せ。愛せ、愛せ。愛すのだ。

 am1:46 路駐したボンネットの凹んだグロリアを青山のデニーズの窓際席から私達は見下ろしてクラブハウスサンドイッチを頬張っている。それからどうしたんだっけ。櫻井。あ、櫻井が、『なんで白なんだ』そんなことを聞いた。違う。櫻井は何も言わなかった。しばらく私を見つめた後『お前は顔がかわいいんだな』そう言って全席禁煙席でセッターに火をつけた。それは合図であったのだ。あっという間に店員が櫻井を取り囲む。なぜか皆は揃いも揃って濡れたダスターを手にしていた。男は水色、女はピンク。櫻井は男、私は女。私は櫻井という男の為に外階段を駆け降りる。櫻井がいないのなら私はもうこんなクソみたいな夜からおりているだろう。櫻井がいないのなら私は3日前に死んでいるはずだった。私はエンジンをかけて、外れかけたフロントバンパーを引き摺りながらグロリアに鞭を打つ。お願い。櫻井。出てきて。桜を見上げたように、助手席に身を乗り出しては出入り口を見上げて祈るんだ。次の瞬間、けたたましいサイレンと共に櫻井が飛び出してくる。その様子はまるで宙に舞う奇跡だ。あまりにも美しい。死は奇跡だ。死ぬことが許されないという罰がこの世界にはある。私も、私の母も。彼女もどこかで今頃猿轡をしたまま生きながらえている。雪印のコーヒー牛乳でも飲みながらオナニーでもしているのだろう。櫻井が階段から飛び降りた時、宙に死そのものが浮遊しているのかと思った。am4:20 グロリアの中、このまま手を繋いだまま眠ってしまったら櫻井のことを本当に愛し始めてしまうと怖くなり、am4:24 櫻井の繋いだ手を解こうとする。am4:24 櫻井が私の繋いだ手を離さない。その力は私の手の形を改めて確かめているかのようであり、私に私という形を教えてくれた。眠りにつく前すこし前私は櫻井の少しだけ生えた髭を剃ってあげた。櫻井は胡座をかいたまま良い子にしていて、私が右を向いてと言うとゆっくりと右を向いた。『あ、おっぱいだ』そう言うと可愛らしく少し笑った。きっとここから先はもうエンドロールなのだろう。きっとここから先はあまりにも速い。息が浅くなるなら櫻井の唇でこの呼吸を塞いで貰えば良い。終わるのだ。もうじきに。

 また新しい朝が来る。私達はすでに気付いている。私達に纏う朝の空気が、昨日よりも進んだ春のもので、その速度に私達は今日振り落とされるであろう。そのことに私達はすでに気付いていたのだ。am9:16池袋。ホテルメトロポリタン駐車場。私達はグロリアの窓ガラスを全て曇らすほどに愛し合う。愛し合って愛し合う。『愛してる』愛してると言ってみる。とっくに愛していたことに気づいてしまう。櫻井は私のことを殴らなくなる。『殴って』『なんで』『殴れよ』『やだもう』『もうってなんだよ』『なにがだよ』『違うことすんなよ』『してねえよ』『これが最後みたいにしてんじゃん。キモいよ』私は櫻井の掌を丸めて自分の頬に打ちつける。拳が頬に当たる度に視界が揺れる。泣くなよ。櫻井にそう言われて、自分が泣いていることに初めて気付いた。

 pm2:22 私達もう焦げついてるんじゃないかな。PARCOの女子トイレで鏡越しに母親くらいの年齢のババアとしばらく目が合った。少し前から私と櫻井は離れて歩いている。櫻井は私に行き先を言わない。愛してしまった頃、その男の背中には触れられなくなったのだった。人混みの中いとも簡単に櫻井を見失う。私達もう焦げついてるんじゃないかな。櫻井と出会ってから私の頭の後ろにも眼が出来たんだよ。マスカラ?つけてあげていいの?喜ぶと思うわ。櫻井はもういない。

 ママへ。池袋は厳戒態勢です。あ、生理が来そう。ママ。ナプキン、マツキヨで買わないと。ナプキン受け取ったとこでお縄かな。あ、でも。あ。ママごめん。走るね。

 pm4:17 もう終わりだと思う。サンシャイン通りのど真ん中に立ち止まってすでに数十分。一歩でも動いたら私が爆発するんじゃないかと思うくらいには張り巡らされた緊張感の中にいる。それでも私はなんだか誇らしい。櫻井の拳が私の骨を抉る音がする度、櫻井は力を強めていく。時間は果てしなく感じられ、世界は白ばんでいく。血を吹く私は櫻井だけに委ねられる。そんな緊張感の中、私の生命は息吹いていた。公衆電話まで3歩ほど。あの電話ボックスの中まで、だるまさんが転んだをすれば良い。鬼に触れるあの時のように、水溜りを飛び越えるかのように。そんな風に、会いたくて会いたい櫻井に近付いた。もう取り囲まれていることはとっくに分かっている。子供の頃から見ていたあちら側の大人の匂いがむせ返るほどに強くなっていることにすら気付かないようならば、私はきっと電話ボックスの中に辿り着くことはできなかっただろう。電話ボックスの扉に左脚をかける。開けてくんなよ。左耳に受話器を当てて、安全ピンで右腕に彫り込んだ櫻井の番号をプッシュする。プルルルルル。プルルルルル。どうしてこんなにも二度と繋がらないような気がするのだろう。私は10円玉を足す。プルルルルル。櫻井なんて男は最初からいなかったのかもしれない。プルルルルル。pm4:20 『もしもし。あ、俺のかわいい子だ』『わたしだけど』『分かるよ』櫻井も私も黙ってしまう。蒸せ返る。この愛は濁流だ。捜査車両が取り囲む。親ほどの年端の刑事たちは悠長に車を降りこちらに近づいて来る。臍を曲げて公園の土管の中に家出した幼い私を迎え抜きたあの日の母親のように。『今ね、喪服着てるの。脱がせてよ』『なんだよそれ』『殴る?』櫻井は少し笑った。『今ね、喪服着てんの。脱がしたくない?』電話口で櫻井が誰かに呼ばれる。その声はあの日土足のままリビングに上がっていた男のものに似ていた。『脱がしたいよ。会いたくなる』櫻井の名前が再び呼ばれる。櫻井がもう二度と開かない扉の先に入っていくのが見える。『櫻井、謝りなよ。逃げなよ。刺せば』耳元に海の音が広がる。電話ボックスの扉がついに開かれる。左脚のつっぱり棒は何の抵抗も無しに下ろされた。『愛してる』どちらかが言ったかなんて今となっても分からない。櫻井とは違う腕が私を引き摺り出そうとして、引き摺り出された私は、櫻井が死んじゃう、櫻井が死んじゃうのと、そう騒いで。子供のように、それはそれは泣きじゃくった。櫻井が死んだ音がする。多分南の方だ。あの子はお腹を空かせてる。抱き締めてあげないと。あの子は本当に。私は虚空に右手を差し出す。櫻井に引っ張られながら歩いた真夜中の新宿が好きだった。皆んなが道を開けた。『見んなよな』誰も私達を無視することは無かった。櫻井は決まって私の瞳を見つめてくれた。『見んなよ』見てるのは櫻井だよ。おっぱい見てるんでしょ。

 2024/04/01 あれから何年経ったのかは分からない。今日、櫻井が死んだ。ケロロ軍曹の着ぐるみを着せられたまま重機の下敷きになっていたらしい。櫻井、喪服を脱がしてよ。あの日、あの夜、出会った時のまま、私は病衣のままでどこにも行けていない。頭の中についに虫が湧いたらしい。その虫が悪さをする度に櫻井の夢を何度も見たよ。櫻井はベロアのトラックジャケットを着たままで物語の主人公のように、私たち、いつまでもあの日のままの二人で。『お前髪伸ばせよ』『伸ばしてるよ』『いつ伸びるの』『夏じゃない?じゃあそれまで一緒いないとね』

 今年も桜はこぼれ落ちるように咲き乱れています。桜が女の涙によって美しい咲き乱れるとするならば、この桜は私が咲かした桜だ。3・2・1でベランダからぴょん。死が宙を舞う。新緑を待たぬまま。私、桜色って本当に大好き。迎えに来て。








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