シャーマンキングとソウルイーターと武装錬金の見分けがつかない

・始まりはTwitterの「トレンド」だった

 この記事を書く2日ほど前、Twitterのとあるツイートがバズってトレンド入りしていた。

 記事作成時点で8万RTも稼ぎ出しているのは紛れもない公式側のアカウントであり、フェイクニュースでないことは明白だった。

 TLに流れるのはシャーマンキングの思い出話や限界オタクたちの歓喜の雄たけび。コロナ禍の余波で沈んでいた日本のオタクボリューム層達はこの知らせに色めき立ったのであろう。

 過去人気だった作品のリメイクは往々にして話題になりやすい。封神演義もニュースになっていたし、バキも今新シリーズがアニメになって話題になっている(両者の出来はさておき)。

 だが、私は今回の「シャーマンキング再アニメ化」の一報を耳に入れた瞬間、オタクボリューム層との大きな断絶を感じてしまった。

・「違いの分かる大人」は遠い

 もともと、私はシャーマンキングを全く知らないオタクである。ジャンプの漫画という事ぐらいしか知らない。連載時期すら知らないし、当時のムーブメント具合も知らない。Vtuberとしてこの部分に言及するのはどうかとも思うのだが、ぶっちゃけてしまえば連載開始当初(98年と調べがついた)、私はまだ識字できる年齢ではなかったのだ。

 しかし、TLで流れてきた時点で一応マンキン(こう略すらしい)について記憶をたどりはする。自分が門外漢の話題でもちょっとでも引っ掛かりがあれば、「あーあれね、あれは……」と少しは考える。

 しかしそこで私は気付いてしまった。脳内の「マンキン(この略し方は割と嫌いではない)イメージ画像」があやふやなのだ。何なら主人公の特徴的な後ろ髪のイメージから連想したせいで切札勝舞が一瞬出てきた。

 その後も少し考えたが、最終的に私はある一つの強い疑問を得て落ち込んでしまった。

 「果たして俺はシャーマンキングとソウルイーターと武装錬金を区別できるだろうか?」

 自分の中でついていないのだ。この3つの作品の区別が。

 キービジュアルを出されればわかる。一瞬迷うが流石に区別がつく。

 だが、逆に言えばビジュアル的要素無しでは三作品の区別は自分には不可能だ。自分の言葉だけで三作品の違いを説明できない。

 そもそも、マンキン(この略し方も板についてきた)以外に出てきたソウルイーターと武装錬金だが、切札勝舞君の後に自分の脳内に浮かんだビジュアルイメージである。浮かんできてしまう時点で、混同はすでに発生してしまっているのだ。

 三作品とも中身を全く知らないのが一番の要因だろう。絵しか知らない。キャラの名前も知らなければどういうストーリーかも知らない。タイトルから何となく「あーシャーマンの王になる話かな?」「あー魂食べる話かな?」「あー武装するのかな?」ぐらいは推測できるが、それまでだ。

 年代的にはそれほど差がある作品群ではないだろう。にもかかわらず私が三作品とも全く語れないという現実。これは「オタクのメインストリーム、週刊連載漫画作品群のマインドも知識も自分は持ち合わせていない」という事実を眼前に突き付けてくる。

 だが、自分が真に愕然としたのは、この事実を突き付けられても自分の知的好奇心が動かなかった点である。

・錆びついたアンテナを抱えて

 自慢じゃないが、今の自分にはマンキン(よし、もう慣れた)もソウルイーターも武装錬金も全巻買いそろえるぐらいの金はある。ネットで買えばすぐ揃うだろう。何ならアニメだって視聴することに障害はない。

 だが実際には、「そんなことは不可能だ」という確信にも似た諦観が先に立ってしまう。

 今はないのだ。オタクとしての「気力」が。

 思えば、最後にアニメに熱中したのは何時だっただろうか。原作小説を愛読していた「ジョーカー・ゲーム」の頃が最後だから、優に三年は経っている。それ以来、満足にアニメを完走した記憶がない。

 生来から「流行りものと知ってしまうとその作品を見たくなくなる」という面倒くさい病を患っている自分は、結局まどマギもサイコパスも君の名は。も「けっ、俺はミーハーじゃねーんだよ、評価固まったら見てやるよ」とスルーしてしまった。

 かといって、話題になっていない作品を掘り出して観始めるのかといえばそうでもない。とどのつまり何も作品を取り入れないで歳月だけが過ぎていき、気付けばこの有様なのである。

 こうなると自分の中の「オタクアンテナ」はもう錆び付いてしまう。自分は今何オタクなのだろうか。何ならば語れるのだろうか。何を「好き」と言えるのだろうか。こればかりは受信できないが、自問しても答えは砂嵐の中だ。

 シャーマンキングを全巻揃える気になれない理由もここにある。

 「今更」、「わざわざ」、「時間が」

 言い訳ばかりが先に立つようになってしまった。そんなもの何も関係ないのに。いつだって「オタク」には戻れるのに。

 自分自身が「オタクでいられない理由」を補強してしまう。

 このまま進んだ先に何があるのか、想像すると恐ろしい。

・希望じみた事

 シャーマンキングを通して、「錆び付いたオタク」という自分自身の姿を浮き彫りにさせられた。

 だが、自分は前段で

今はないのだ。オタクとしての「気力」が。

 と、書いた。

 「今は”もう”ないのだ」、とは書かなかった。

 もうない、と書いてしまうと二度と気力が戻ってこない、と認めてしまう気がするので、書けなかった。

 明日、来月、来年、自分はまたアニメを沢山見ているかもしれない。漫画を沢山買っているかもしれない。

 その希望を今ここで捨てることはできなかった。

 時が来たら、何も考えず、ただアニメを、漫画を楽しもう。

 その願いだけが、今の自分と「自分の考えるオタク像」を繋いでいる。





 でもいつまで経ってもシャーマンキングとソウルイーターと武装錬金の区別はつかないと思う。もう一緒ってことでよくない?

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