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新しい王様

どっちかと言うと僕自身の頭の整理のために書く。

僕の頭程度の理解だから間違いもあると思うから、架空の昔話くらいのつもりで書いていこうかな、そのほうが僕自身にも優しそうだ。

昔々、僕たちは王様やごく一部の特権階級の者たちをその座から引きずりおろした。

それはわがままな自分勝手さとかからなんかじゃなくて、人間として生きていきたいと望んだから。

そうして手に入れた自由は、それはそれは素晴らしいものだった。

迫害される心配は消えやしないけど、それでも時代とともに少なくなっていったし、選挙権だって手に入れた。

学校や仕事だって家柄や出自にかかわらず自由に選ぶ権利も手に入れた。

アイデアさえあれば、新しい商売だって可能だし
どんな職種に就く権利だって持ってる。
うまく頑張ったやつが頑張った分だけ儲けることだって出来る。

資本主義ってやつだ。
なんて素晴らしい。

でもやがてそんな社会がこなれて来た頃に、鬱病なんかの新しい病が登場したんだ。

どっかから何かがおかしかった。

少しずつ少しずつ。

自由にあふれた資本主義の中にあって、みんなの気持ちや思考基準に気づかぬ内に大きな柱が出来た。

成果主義だ。

「どれだけ生み出せるか?」「何を成し遂げたか?」が重要な価値基準になった。
全てのモノが人間が、そんな定規で測られるようになった。
そして生産性のない人というのは、「いなくてもいい人」とその定規ではジャッジされた。

わけあって、でも結果として生産性が無いと見なされた人は袋叩きに合うようになった。
わけなんか聞いてもらえない、だって自分で道は自由に選べたはずだから、「自己責任」て鉄くぎを心臓に打ち込まれた。

この自己責任てのは誰でも使えちゃう簡単な呪いだ。
それを唱えるだけで、自分は火の粉の届かない安全な位置に立てる。

そして唱えられた人をどんどんと孤独に追いやる。
でも呪いをかける側にだって「自分は無関係だ」って宣言する事によって、己の世界を、繋がりの先の可能性を、自ら潰して窮屈にしてしまってるって事には早く気づいたほうがいい。


でもその定規で他人に批判されるうちはまだましなのかも知れない。

やがて自信のない人たちは自分自身を「いなくていい人」なのかも?と考えるようになった。
自分なりに頑張って来たつもりでも、なかなか「生産性」を見いだせない。
自分が選んだやり方、進み方、選択から来た、つまり自己責任なのだろうと自らを責めるようになる。
ここまで来たら簡単だ、加速度をつけてどんどんと心は蝕まれていく。

さらにたちの悪いのは、この定規はどうやら平面しか測れないことだ。

つまりこうだ
この定規の特性を正確に言い直せば
「みんなの必要なモノ」をどれだけ生み出せるか?
「みんなのために」何を成し遂げたか?
て事になるんだと思う。

なんで「今日みんなが必要じゃないもの」が明日も必要ないってわかるんだろう?
なんで今日自分のために作ったものが、明日も「みんなの役にたたない」てわかるんだろう?

王様や特権階級の支配者を引き吊りおろして手に入れたはずの自由な世界で
気づいたら僕らはこの薄ぼんやりとしか見えない漠然とした「みんな」と言う新しい王様を作り出してたんだ。

「僕が作ってるものなんてみんなに必要ないのかも知れない。」
こうやって新しい病は作られて行ったんだ。

子供を授かるのが難しい夫婦の、特に奥さんをこの定規で叩く言葉を聞いたことがある。

同列に語ることではないかも知れないけど

未成年の子達が路上生活者を虐めて殺める事件が起きた。
障害のある子供たちを育む施設を無差別に刃物で襲う事件が起きた。

背中を押してるのは誰なんだろ?

本当に病んでるのは誰なんだろう?


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