和解の趣旨

 最近の地裁の裁判官の中には、証拠等によってその存否を証明できる事項が表明されていても、具体的な根拠が伴っていない場合、事実摘示ではなく意見論評に過ぎないとして上で、原告の社会的評価が低下していないとする人たちが結構います。

 だから、そういう裁判官が担当していたら、例のオープンレターの例の表現は、事実摘示ではなく意見論評に過ぎないとして上で、原告の社会的評価が低下していないとされる危険が高いといえます。それはそれで敗訴覚悟で一審判決を出させて控訴審に賭けるか、原告の社会的評価を低下させる事実を摘示したものでないことを認めさせる和解を取り付けるかは、原告の訴訟戦略の問題です。

 後者の戦略をとった場合、被告表現は上記事実が存する旨を主張するものではないことを被告も認めた旨、原告が強調するのは当然の話です。それが許されないのなら、上記のような和解をする意味がありませんから。なので、

本件当事者は、別紙「オープンレター」は、反訴原告の投稿及び「いいね」を押した行為について、「それ(歴史修正主義)に同調するかのような振る舞いをしていた」と表現し、その行動の持つ社会的意味や問題性について論評したものであって、反訴原告を「歴史修正主義者」であると断定したものではないこと、反訴原告が「歴史修正主義に同調する振る舞いをした」とまで断定したものでもないことを確認する。

https://ygoza.hatenablog.com/entry/2023/09/30/233104

という文言が和解調書の中に入ったのであれば、「オープンレター」は反訴原告を「歴史修正主義者」であるとするものでもなく、反訴原告が「歴史修正主義に同調する振る舞いをした」とするものでもないことをオープンレター側が認めたと、反訴原告側が喧伝するのは、和解の趣旨に全然反していませんし、全く問題がないことです。それが許されないなら和解をするメリットが反訴原告側にありません。断定でなければなんなのだという話です。

そして、そのことは、どちらが和解の申出をしたかによって変わりません。

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