音楽教室事件高裁判決について(後編)

(承前)

 音楽教室事業者から見て生徒は「公衆」か

 高裁は、教師による演奏の主体は法的には音楽教室事業者だとし、演奏とは単に音楽を奏でることと判示したわけです。すると、これが公衆に直接見せることを目的とした演奏に当たるかどうかは、音楽教室から見て生徒が「公衆」に当たるかどうかによることになります。

 この点について、高裁は、


生徒が控訴人らに対して受講の申込みをして控訴人らとの間で受講契約を締結すれば、誰でもそのレッスンを受講することができ、このような音楽教室事業が反復継続して行われており、この受講契約締結に際しては、生徒の個人的特性には何ら着目されていないから、控訴人らと当該生徒が本件受講契約を締結する時点では、控訴人らと生徒との間に個人的な結合関係はなく、かつ、音楽教室事業者としての立場での控訴人らと生徒とは、音楽教室における授業に関する限り、その受講契約のみを介して関係性を持つにすぎない。そうすると、控訴人らと生徒との当該契約から個人的結合関係が生ずることはなく、生徒は、控訴人ら音楽事業者との関係において、不特定の者との性質を保有し続けると理解するのが相当である


と判示しています。


 このように、高裁は、何らかの音楽を奏でて直接聞かせるという関係が、相手方の個人的特性に着目しない契約により形成された場合、当該契約に基づいてその相手に何らかの音楽を聞かせる限り、それは不特定の者に対して聞かせるのだと判断したものと言えます。
 ただし、「直接聞かせる」の目的格にくるのが(何らかの)「著作物」ではなく「演奏」であることを考えると、それもいかがなものかなと言う気がします。音楽教室では生徒の習熟度に合わせて講師は楽器を奏でるのであり、とりわけ生徒が間違えた部分についてはどうすれば正しく楽器を奏でることができるのかを示すために、誇張的に奏でて見せたりもするわけで、それら個別の「手本」により生じた音は、音楽事業者と契約を結べば誰でも聞けるものではありません。


 教師による個々の手本として奏でられた音について、たとえそれ自体を聞くことができるのはそのときその教室にいた生徒だけであって、誰でも聞くことができるわけではないとしても、その生徒がその教室でその音を聞くことができたのは、その個人的特性に着目せずに結ばれた契約に基づいているのだから、なお、不特定人に対して直接聞かせたと言って良いのだ、というのが高裁判決の考え方なんだと思います。しかし、この高裁の論理だと、家庭教師が生徒に対して教科書に記載されている英文の正しい発音を理解させるためにこれを読み聞かせるというような場合に、生徒の個人的特性に着目せずに家庭教師契約を締結した限りにおいて常に公衆に直接聞かせる目的での口述がなされたと言うことになりますが、その結論には大きな違和感を感じます。

2小節以内の演奏について

 音楽教室において教師が2小節以内の演奏をすることがJASRAC管理楽曲の演奏にあたるかについて、高裁は、「たとえ2小節以内の部分の演奏であっても、常に課題曲全体の曲想・特徴を念頭に置き、これを表現することを企図して、その一部分の演奏のあり方が探求されるものであり、その一部分は、課題曲を離れたただの音の断片ではないから、課題曲のうちの当該2小節を切り取り、その著作物性の有無を論ずる意味はない」とした上で、「2小節以内の演奏を繰り返すレッスンがあったと仮定しても、演奏権が及ぶかどうかは、課題曲を対象として検討をすべきである」とします。

 しかし、音楽教室においてなされる演奏のうち教師による演奏のみが音楽教室事業者による演奏にあたるとする高裁判決の建前からすると、そのときのレッスンで特に教えたい技術が盛り込まれている部分や生徒が間違えた部分についてのみ教師が手本を示すために2小節以内を奏でるという方式を採用した場合、音楽教室事業者は、課題楽曲全体を奏でることなく終わることになります。そのような目的で2小節以内の部分を教師が奏でる際に、「課題曲全体の曲想・特徴を念頭に置き、これを表現することを企図」しているのかは甚だ疑問です。仮にそうだとしても、実際に教師が奏でるのが課題曲のうちの特定の部分に限られる以上、課題曲全体を演奏したものとして、演奏の対象の著作物性を認めてしまうのはおかしいのではないかと思います。頭の中で企図しているだけでは、著作物の利用にはあたらないからです。

 さらに、高裁は、「仮に、課題曲のうち2小節を切り取って著作物性を判断すべきであるとしても、2小節以内の部分を聞いただけでそれが属する楽曲を知ることができる曲の数はおびただしく、そのことは、当該2小節以内の部分が創作性のある表現物であることを意味する」と判示しました。
 これは、創作性と識別容易性とを混同した議論であるかのように思います。
 「メロスは激怒した」と聞けば多くの人はそれが属する小説を知ることができますが、では、「メロスは激怒した」という文章だけでそれが創作性のある表現物であるといえるかは疑問です。音楽だって同じことです。The Beatlesの「Yesterday」の冒頭の2小節「Yesterday」との部分を聞けば、The Beatlesの「Yesterday」を知っている人の多くが「ああ、これはYesterdayの冒頭のフレーズだ」と認識するかも知れませんが、だからといって、あの3音の組み合わせに著作物性を認めてしまうのは暴論だと思います。

その他

 この訴訟では、原告側がそういう場合分けをしていないので仕方がないのですが、ドラムやベースなどの楽器のレッスンに際して、教師がドラムを叩いてみせる、ベースを弾いてみせる行為がなお、JASRAC管理楽曲の演奏にあたるのかどうかも判示していただきたかったところです。ドラムやベースのスコアまでJASRACは信託譲渡を受けていない可能性が高いからです。ドラムやベースの譜面まで、作曲家が作曲したメロディの二次的創作物といえるのかは大いに疑問だからです。
 この事件の第1審判決に関する研究会の時に、原告側の代理人と思しき人にはその点申し上げたのに、争点化しなかったのは残念なのですが。


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