音楽教室事件高裁判決について(前編)

 音楽教室事件高裁判決について気付いたことをいくつか。

 「演奏」の意味について

 高裁は、「演奏」の意味について

 その意義は「音楽を奏すること」との意味合いであると理解するのが自然である

としています。ここが一つポイントで、「演奏」という熟語を、「演」という漢字で示される意味を排除して、「奏」という漢字の意味だけで理解しようとしています。

その結果、上演に含まれるもののうち、音楽を奏する場合のみ「演」という要素を不要なものとしています。


                「演」の要素あり    「演」の要素なし
 言葉による再現          上演          口述
 身体の動静による再現       上演          ×
 音楽を奏することによる再現    演奏          演奏

これは、著作物の他の方法での再現行為との関係でバランスを欠いているように思います。

 「聞かせる目的」について

 そして、「演」の部分を除いて「演奏」を定義する高裁の理解は、教師による演奏が「聞かせることを目的」としたものであるという判断を導くことになります。

「生徒の演奏を目の前で聞いた教師が、生徒に対する演奏上の課題及び注意を口頭で説明するとともに、必要に応じて当該部分の演奏の例を示」す場合における教師の演奏は、「正しい演奏方法を示す」という目的に専らよるものであり、「演」の要素がないわけですが、それでも奏せられた音を聞かせる目的はあるので、高裁はこれを「聞かせることを目的」に含めたものといえます。

 この高裁の考え方からすると、生徒による演奏についても公衆に直接聞かせる目的ありと認める方が素直なのですが、高裁は、「音楽教室においては、生徒の演奏は、教師の指導を仰ぐために専ら教師に向けてなされているのであり、他の生徒の向けられているのではないから、当該演奏をする生徒は他の生徒に『聞かせる目的』で演奏しているのではないというべき」であると判示しています。しかし、生徒と教師との間に個人的な結合関係がないことをもって教師から見て生徒を不特定人=公衆とする以上、同じく生徒からみて教師を不特定人=公衆とする方が素直ではないかという気がします。教師の指導を仰ぐために専ら教師に向けてなされる演奏と、生徒を指導するために専ら生徒に向けてなされる演奏と、正反対の結論を導く以上、両者を分ける理由が提示される必要があるように思います。

 著作物の利用主体について

 高裁は、利用主体の判断基準として、ロクラクⅡ法理を採用する旨判示しています。

 しかし、「教師を兼ねる事業者たる音楽教室事業者は、個人教室を運営する各控訴人…が教師として自ら行う演奏」については、「その主体が音楽教室事業者である当該控訴人らであることは、明らかである」として、ロクラクⅡ法理への当てはめを行いません。

 そして、「音楽教室事業者ではない教師が音楽教室で行う演奏」については、「本件受講契約の本旨に従った演奏行為を、雇用契約又は準委任契約に基づく法的義務の履行として求め、必要な指示や監督をしながらその管理支配下において演奏させているといえるのであるから、教師がした演奏の主体は、規範的観点に立てば控訴人らであるというべきである」と判示しています。しかし、これは、ロクラクⅡ法理の当てはめになっていません。


 「複製への関与の内容及び程度」としてロクラクⅡ事件において最高裁は、「サービス提供者は、単に複製を容易にするための環境等を整備しているにとどまらず、その管理、支配下において、放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力するという、複製機器を用いた放送番組等の複製の実現における枢要な行為をしており、複製時におけるサービス提供者の上記各行為がなければ、当該サービスの利用者が録画の指示をしても、放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであり、サービス提供者を複製の主体というに十分であるからである」と判示しています。すなわち、ロクラクⅡ事件では、サービス提供者は、「放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力する」という行為を行うことにより、利用者が録画の指示をすればそれだけで特定の放送を複製できる状態をサービス提供者が作り上げており、だからこそサービス提供者を複製の主体というに十分だとしているのです。
 音楽教室において、生徒に聞かせる録音物を音楽教室事業者が教室内に設置しておき、教師はボタンを押しさえすればそれを再生できるようにしていたのであれば、その録音物の再生による演奏についてはロクラクⅡ法理を適用することができるかもしれません。しかし、教師自身が楽器を演奏する場合には、そうはいきません。教師に対するマニュアルを作成する、教師に対して研修等を行う、レベルの高いレッスンを実現している旨を宣伝して、これによって顧客を誘引する、演奏を行う設備及び演奏に必要な設備、楽器類等を用意する──これらはいずれも、演奏を容易にするための環境の整備にとどまるのであって、「放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力する」行為に匹敵する、音楽教室における演奏の実現における枢要な行為というに値しないように思われます。

 といいますか、音楽教室事業者との間で雇用契約又は準委任契約が締結されている教師による演奏を音楽教室事業者による演奏としたければ、手足理論を使えば良かったのであって、なぜロクラクⅡ法理を掲げたのかが疑問です。

 これに対して、高裁は、生徒による演奏については、生徒の演奏する課題曲は生徒に事前に購入させた楽譜の中から選定されること、生徒の演奏は音楽教室事業者が設営した教室で行われ、教室には通常は音楽教室事業者の費用負担の元に設置され、音楽教室事業者が占有管理するピアノ、エレクトーン等の持ち運び可能ではない楽器のほかに、音響設備、録音物の再生装置等の設備があるが、これらは、個別の取決めに基づく副次的な準備行為、環境整備にすぎず、生徒の演奏それ自体に対する直接的な関与を示す事情とはいえないとします。
 それ故ロクラクⅡ法理によれば生徒による演奏について音楽教室事業者が演奏の主体であるとはいえないとする結論自体は正しいです。ただ、教師による演奏の主体を音楽教室事業者とした考慮要素を、生徒による演奏についてはその主体を音楽教室事業者とする考慮要素たり得ないとするのは、いくら何でもやり過ぎかなと言う気がします。

 結局のところ、高裁は、教師は音楽教室事業者に対する義務として演奏しているのに対し、生徒は音楽教室事業者に対する義務として演奏しているのではないというところで、音楽教室事業者をその演奏の主体とするか否かを決めているに過ぎません。そうであるなら、ロクラクⅡ法理ではなく、手足理論で行くべきだったように思われます。

 ただ、そもそもの話をすると、音楽教室事業者は、生徒との間の準委任契約に基づき、自ら演奏し、またはその雇用契約ないし準委任契約を締結した教師をして演奏させるわけです。したがって、義務としてなされている演奏については権利者が演奏の主体となるという枠組みだと、教師による演奏の主体は生徒だということになりそうにも思えます。雇用主ないし委任者が演奏の主体となる雇用・準委任契約とそうでない雇用・準委任契約とをどこで分けるのかという問題は生じてきそうです。

(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?