例のオープンレターと社会的評価の低下

 言語表現による名誉毀損の成否は、基本的に最判平成9年9月9日民集51巻8号3804頁の打ち立てた基準によってなされます。

 新聞記事による名誉毀損の不法行為は、問題とされる表現が、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させるものであれば、これが事実を摘示するものであるか、又は意見ないし論評を表明するものであるかを問わず、成立し得るものである。

とした上で、

ある記事の意味内容が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは、当該記事についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきものであり(最高裁昭和二九年(オ)第六三四号同三一年七月二〇日第二小法廷判決・民集一〇巻八号一〇五九頁参照)、そのことは、前記区別に当たっても妥当するものというべきである。すなわち、新聞記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分について、そこに用いられている語のみを通常の意味に従って理解した場合には、証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているものと直ちに解せないときにも、当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前期事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈等の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である。

というのが最高裁判例です。婉曲的な表現を使おうが伝聞形式を採用しようが、事実摘示による名誉毀損と認定するというのが最高裁の立場です。最近これと反する下級審裁判例が散見されるようになりましたが、最高裁判例は揺らいでいません。

その観点から、例のオープンレターを見ていきましょう。

問題とされたのは、

呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしてい

たという記載です。

 オープンレターには、ここでいう「非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞い」が何を指すのか記載されていません。そして、ここで問題とされている呉座先生の行為は「非公開アカウント」における振る舞いなので、このオープンレターの読者は、原則問題とされている「呉座先生の行為」を自分の目で確かめることができません。

 すると、一般の読者の普通の注意と読み方とを基準としてこの記載を見た場合に、この記載はどのように理解されるでしょうか。

 呉座先生は、非公開アカウントでは、歴史修正主義にあたる内容の投稿等に同調する内容の投稿を繰り返している

と理解されるのだと思います。これを読んで、

呉座先生が、非公開アカウントで多数のツイートに「いいね」を押していたところ、その中にいくつか歴史修正主義者による投稿が含まれていた

という意味に理解する人はほぼ皆無だったと思います。

 そして、呉座先生が百田尚樹さんの「日本国紀」を公的な場で批判していたことは広く知られていますので、ここでいう歴史修正主義とは、日本の過去の歴史を賞賛したいが為に客観的な史実とは異なることを史実として吹聴することを指すと理解されます。したがって、上記記載は、一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として理解した場合、

 呉座先生は、公式には、日本の過去の歴史を賞賛したいが為に客観的な史実とは異なることを史実として吹聴する言説を批判してみせているが、非公式アカウントでは、これに同調する内容の投稿を繰り返している

という事実を摘示したものと理解され、それは、呉座先生の歴史修正主義に対する批判は、専門家としての立場からなされているものであり、内心は、歴史修正主義に同調しているのだと理解させるものです。

 歴史修正主義なんておよそまともなものではないと一般に理解されている以上、「内心は、歴史修正主義に同調している」と理解させる上記表現は、呉座先生の社会的評価を低下させるものといえるでしょう。

 例の和解について勝利宣言をしたりこれに同調したりしている人たちは、今後も、自分宿の仲間を批判する人たちに対して、「オープンレター」という形で、こういう誤解を招くレッテル貼りをしてよいのだと考えているのだと思いますが、それはいかがなものかと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?