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03.graduation ceremony

「さち! なにぼーっとしてんのっ」

 休み時間に自分の席に座っていたら、突然声をかけられて肩を震わせた。覗きこんでくる友達に、慌てて言葉を返す。

「え、な、なんでもないよ」
「ふぅん? ね、ね。これよろしくー!」

 そう言われて渡されたのは、可愛くポップな絵柄でうめつくされた、ノートの半分ほどの大きさの紙。
 年が明けて、ひとりの女子が持ってきたことで一気にクラスに流行りだした、それはサイン帳だった。名前やニックネーム、好きな食べ物や、ちょっと変わった質問が書いてある紙を配って、空欄を埋めてもらって回収する。
 友達をファイリングしていくためのもの。
 子供っぽいその流行を、高校三年生にもなって、と教師は苦笑するけれど、就職クラスである私達はもうほとんど進路が決まっていて、教室にはどことなくゆるい空気がただよっている。進路が決まっていない人も、まあなんとかなるだろうと考えているような、お気楽クラスだった。
 うんわかった、書いておくよ、とうけとって、ファイルにしまう。

「さちはサイン帳持ってないの?」
「うん、買ってないけど……」

 特に理由があったわけでもなく、ぼんやりしているうちに流行に乗り遅れてしまっただけだった。いつも、私は人よりすこしテンポが遅い。
「もったいなあい!」
 友人はおおげさに驚いてみせた。
「ねぇね、あたしの見てよ!」
 彼女はバインダーになっているサイン帳をとりだして声をひそめて。
「小沢くんに書いてもらったんだー! ほら好物がナタデココなんだって! チョーカワイイ!」
 ああなるほど、と思った。
 女子連中が競ってサイン帳を配ってまわるのは、きっとそういう意図もあるんだろうなと、ひとりで得心した。
「さちもさー、誰か気になる男子に書いてもらったら?」
 そこで始業のチャイムが鳴って、友人は席に戻っていった。
 私は斜め前の席に、視線を戻す。

 三つ前の席に座った相葉くんは、今日も目の縁がほんの少し、腫れている気がした。

 アイバケンジという人のこと。
 視力が悪く、コンタクトをしていること。体育にサボり癖があること。サボった時は大抵屋上で眠っているということ。読書が好きで、図書室にいりびたっているということ。
 人当たりがいいということ。そのくせあんまり人と喋りたがらないということ。
 ひとりごとが多く、時折宙をみながらぶつぶつと言っているということ。
 授業中は熱心にノートに向かっているということ。だのに質問されても聞いていないことが多いということ。
 本当は涙もろくて、合唱コンクールでひとり、『島唄』を聞いてはらはらと泣いていたこと。
 最近よく、怪我をしてくるということ。
 私が知っている、彼のことは、それだけ。
 もっと、知ることができるだろうか。卒業するまでに。
 私の好きな、人のことを。

「あの、相葉、くん」
「うん?」
 声をかけるとくるりと相葉くんは振り返った。
 少しだけ色素の薄めの、茶色い目がこちらを向いた。
 おあつらえむきな放課後の教室だった。教室にひとはまばらだった。彼が担任から呼び出しをくらっていたことはわかっていたから、待ち伏せではないけれど、雑用をこなして時間をつぶしていた。
 土曜日の放課後は、運動部の声ばかりが響いている。
「サイン帳をみんなに書いてもらってるんだけど」
「うん」
 彼は頷いた。素直で、小さな子供みたいな反応だった。なんだか、優しい気持ちになった。優しくしてあげたい気持ち。
「書いてくれない?」
「俺が?」
 不思議そうに彼は聞き返す。
「う、うん。クラス全員の分、集めようかと思ってて」
 姑息な嘘をまぜた。貴方の文字が欲しい、ということは、言えなかった。
「……へぇ」
 相葉くんは笑った。私の差しだしたサイン帳を一瞥して。

「可愛いね」

 深い声で、そう言った瞬間、ぶわっと耳が熱くなるのがわかった。そんな自分にびっくりして、おかしいくらい、慌ててしまった。
 誤魔化すように私は言う。
「い、今クラスで流行ってるんだよ! 知らない!?」
「へぇ……いま。そんなことが」
 そう答えた彼は異世界の人のようだった。
 なぜだろう。ひどく、遠く感じた。
「俺が書くの?」
「う、うん。卒業する前に……記念、だから」
「そっかあ」
 そこで相葉くんは窓の方を向いて、寒いグラウンドに目をやった。こちらに向けられた頬が相変わらず赤く腫れているような気がした。そして。

「はやく死んでしまいたいねぇ」

 そう、ぼんやりとした口調で、そう、言った。
「え……?」
 私は突然のことに、聞き返す。
 耳がどうかしてしまったんだろうか。なんの言葉を、どんな風に聞き間違えたんだろう。
 でも、相葉くんはその口調のまま、突然流れるようにしゃべり出したのだ。

「誰もが俺をあんなにも殺したいと願っているのなら、はやくこの首根をつかみ斬首台に叩き置いて、鈍くきらめく刃を渾身の力で振り下ろすべきではないのか。そうすることがつまり、俺への優しさなんじゃあないか。余計な圧迫感をかけ、真綿で締めていくよりも、いっそひと思いに」
「あ、あの、相葉、くん……?」

 突然彼がなにを言い出したのか、それがわからなかった。
 彼の言葉が遠く、そして彼自身が遠く思えた。
 私の放った言葉のなにかが、彼のおかしなスイッチに触れでもしたのだろうか。それとも、他のなにかが? それとも彼は最初から、「こんな」であったのだろうか。私とは、遠く、遠くて。
 私は夢でも見ていたのだろうか。

「あぁ。ごめん、笠井さん」

 彼が振り返る。呼ばれたのは、私の名前。
 立ち上がって鞄を持ち、そうして私の隣を通り過ぎる。
「さよなら」
 見たこともないような、晴れやかな、鮮やかな笑顔だった。
「永遠に、さようなら」



 そうして、その日を境に。
 彼は、二度と学校に来なかった。





 はなのいろ。
 くもの かげ。

 卒業式の歌が流れる。この日を境に、私は学生では無くなる。幼少期の終わり、ということを考えた。
 女子の中には、肩を抱き合って泣いている人もいた。

「さち子ー! いたいたー!」

 ひとりの友達が走ってきて、一枚の紙を私に渡した。

「これー! 前預かってたサイン帳! なんか返しそびれちゃってさあ! 遅くなってごめんね! ハイ!」

 それは、もう鞄の奥にしまわれて、誰に渡すこともしなくなったサイン帳の一枚だった。
 相葉くんに渡す前に、数枚、友達に配ったのだ。
「…………」
 そこに踊る可愛い文字に、なぜか涙腺が刺激され。
「……っ……!」
「ちょ、さちーもう、泣かないでよー! またあそぼうねぇ!」
 突然泣き出した私の肩を叩いて、友達が言う。
 ちがうの。
 そう言いたかった。
 ちがうんだよ。
 なにが違うのかはわからない。それでも。違うんです。違うんです。
 私のこの、涙は。

「……すみません」

 突然、声をかけられた。低い、男の子の声。

「すみません、笠井、さんですよね」

 顔を上げる。そこに立っていたのは、別のクラスの男の子だった。顔よりも先に、肩から提げたカメラに目がいって、写真部の子だ、と思った。この学校で、ひとりきりの、写真部の男の子。知り合いではないけれど、いくつかの噂を聞いたことがある相手だった。話すのは初めてだ。
 名前は遅れて思い出した。確か、宮本みやもとくんといったはずだ。
「……はい」
 私はやっと、それだけを答えた。隣にいた友達はお節介な気をきかせるように、そそくさと去っていく。

「伝言を、頼まれて来たんだけど」

 マイペースにコートのポケットに手をいれて、宮本くんはそんなことを言った。高い背を丸めるようにして、ぼそぼそと話す様子は、木訥としていて、華々しい噂話にのぼる宮本くんとは、ずいぶん乖離しているようだった。
「伝言……?」
 聞き返すと彼はぼんやりと宙を見た。
「誰だっけ……アイバだっけ」
 伝言を頼まれてきた、と、そう言うのに。彼はそんな不思議な言い方をした。
「相葉くんから……!?」
 私は口元を覆う。

「あの、相葉くん、どうしてるの!? 今、なにしてるの……!?」

 出席日数は足りていただろうから、卒業はできていると思う。けれど、あれきり、一度も学校には来なかった。
 私がなにかをしたのかと思った。そうでなくても、彼がここを離れていってしまう「最後」に声をかけてしまうなんて、と間の悪さを何度も呪った。
 けれど宮本くんはどうでもよさそうに首を傾げただけだった。

「さぁ? なにしてるだろうね」

 その、どこか遠い言い方は、あの日の相葉くんのことを彷彿とさせた。
 そのまま彼はぼそぼそとひとりごとのように続けた。

「なにをしてるかは僕の関与するところではないんだけど、そいつから、伝言で。笠井さんに。悪かったって。あいつ、泣いて詫びてたよ。すまなかったって。八つ当たりで、ひどい言葉を投げたから、ごめんなさいだって」

 ごめんなさいって。
 なんで、そんな。
 小さい子供、みたいな。

「そん、な……わたし、は……」

 私はただ。
 ねえ、ただ。あなたに、サイン帳を。
 あなたの文字で、お別れの、記念を。
 好きな人だったのに。好きだったのに、さよならも、言わせてもらえないの、とうつむき浅い呼吸を繰り返す。
 宮本くんは私の態度には、なんの反応もしなくて、ただ、ため息をつくように、小さな声で言った。

「……でも、実はそこにいるんだけど」

 私は驚いて、顔を上げる。
 宮本くんが長い指でさしたのは、校門の場所で。
 そこに、長いコートをきて、帽子を目深にかぶった人影が見えた。大人の男の人のような、そんな佇まいだったけれど。
 私の知っている、彼の、姿だった。

「わ、私、行っても、いいのかな……」

 答える義理もないであろう宮本くんに、すがるみたいに尋ねてしまった。
 私はまた、拒絶されるのが怖かった。
 けれど宮本くんはそんな私のことなんて気にかけることもないようで。

「知らない。好きにしたら」

 そう言って、背を向けて、私を置いていくようにした。
 でも、一度だけ、振り返った。

「……サイン帳」
「え?」
「サイン帳、書いてもらうんなら、ただ、『サイン下さい』とだけ、言ったら、いいよ」

 そうぼそぼそと低く告げて、さっさと人混みの中に戻っていってしまう。
 ひとり残された私は、ずいぶんな間ひとりでぼんやり立ちつくしていたけれど。
 やがて、足を踏み出す。校門の柱に背中をあずける、あの人の元に。
 拒絶されても、だってもう卒業式だ。この涙と一緒に、痛みも傷も流してしまおう。そう思った。

「あの……!」

 声をかけたら、こちらを向いた。
 そこにあったのはひとつの傷もない、相葉くんの顔だった。
 私は鞄の奥からもうずいぶん前から開いていない、サイン帳を、出して。

「あの、サイン、してください」

 彼は、自分のマフラーに少し触れて背筋をただし。

「ん」

 小さく微笑んで、サイン帳の紙を、受け取る。
 そうしてポケットから出したボールペンで、さらさらと、カードの裏面、自由欄一杯に、なにかを書いた。

「はい」

 渡される。
 そこに書かれた、名前は相葉くんの名前ではなく。


『真木遊成』


 綺麗な字で、それだけ。
「これ、今の。……これからの、俺の名前。相葉健二は、死んだんだ」
 涙するように微笑んで、彼はそう言う。

「笠井さん、酷いことを言ってごめんね。俺のわがままで、俺の八つ当たりで。本当に酷いことをしてしまったと思ってるんだよ。君は優しくしてくれたのに、俺には返せる心もないけれど。これだけは渡せる。俺のサインをもらってくれた、君がこの世界でひとりめだ。これから先たとえ、君がどこへ行こうとどこで生きようと、俺の名前をいつか目にする日があるだろう。そうしたら、自分が、俺のサインを初めて受け取った人間なんだと、誇らしく思ってくれたら……嬉しい。それだけのことができるように、俺は、生きていくから」

 その切々とした囁きを聞きながら、私は考える。
 一筋の涙が頬をつたって、誠実とはつまりこういうことだと思うのだ。感受性の強い彼は、私の気持ちにも多分気づいていたのだ。私の気持ちに気づくだけではなく、それを優しさとして受け取って、感謝までしてくれたのだ。
 これ以上の報いはあるだろうか、と私は思う。
 私の好きだった人はもう、ここにはいないのだと言う。
 その言葉の意味はわからないけれど、その感覚は、目の前に立つ彼から感じ取ることができた。
 相葉健二くんは、遠いところに行ってしまった。
 そして目の前に立つ彼はもう、私と同じ世界には立っていないのに。
 きっと私は捨てていった世界のものなのに。
 それでも、せいいっぱい、彼のできうる限りで、私に詫びてくれているのだと、そう思った。

「……またね、って。言ってもいい?」

 涙が落ちたけれど、もう悲しくはなかった。

「うん。またどこかで」

 彼はそう言って、身を翻した。私に会うために、ここまで来てくれたのだと、思った。相葉健二くんはもういないのに。確かめるように私はもう一度思う。それなのに、彼は私に誠実をくれたんだ。
「ああ、そうだ、笠井さん」
 彼は最後に、こう言った。明るい空を背に、微笑みながら。
「君の未来に、愛と恋と、光がありますように」





 ガタン、と電車が揺れて、目が覚めた。
 終電近くの込み合った電車の中で、立ったままうたた寝をしていたらしかった。軽く首を振って、時計を見る。まだしばらく、自宅の最寄り駅までは着きそうもなかった。
 一瞬のうたた寝の中で、夢を見ていたような気がする。その中で、私は学生だったような気がする。もう十年も前のことを、夢に見るなんて、ずいぶん疲れているんだなと思う。
 経理の仕事は期末が一番たてこむ。来月まではこの忙しさが続くのだろうと辟易しながら、浅く息をついて顔をあげた。
 電車の中吊り広告を見ると、視界に飛び込んできた名前があった。
 その名前を見て、どうしよう、と思う。フレックスである程度融通がきくといっても、朝はあわただしいし、夜は遅い。昼休みしかないな、と覚悟を決めた。
 明日の昼休みは、本屋に行こう。
 中吊り広告は出版社の新刊の宣伝だった。そこに私の好きな作家の名前を見つけて、この忙しさも乗り越えられるだろう、と自然と笑みがこぼれた。
 季節は冬から春に変わろうとしている。あの頃と、同じ季節だ。
 あれから、私の未来に、愛と恋と光があったかはわからないけれど。
 悪くない日々を送っていると、彼の本を読むたびに思うのだ。

 彼の名前は真木遊成。

 それは私に初めてのサインをくれた、素晴らしい恋愛小説家だった。


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