見出し画像

昨日のよねさん。


6月11日(火) 朝

「死んだ相手に強がってなんになる。」

昨日の虎に翼の中でのよねさんの言葉。
「仕方あるまい。それがあいつの選んだ道ならば。」
という轟さんの発言に対しての言葉。
私へのパンチライン。

ここからは私が考えたこと。

轟は、もう居なくなってしまった友人であり、それを超えて好意を持っていた花岡の死を「仕方あるまい。」という。
だって、仕方ないから。もう花岡は帰ってこないし、彼が死に至るまでの経緯には彼らしさがあったから。
だから、その彼の死を認める。仕方ないから。あいつがそれを選んだんだ、仕方ない、と。
けど、よねの言葉のあとには轟の本当の言葉が出てくる。
一緒の大学に通えることが嬉しかったこと、その人は判事になったから兵隊にとられずに済むと思うと嬉しかったこと、自分は徴兵されたけどあいつがいる日本に生きて帰りたいと思ったこと、などなど。

そのよねと轟の会話は、自分と地続きだと思った。
私は、自分の感情、心の揺らぎに向き合う前に、「仕方ない」を持ち出していないだろうか。思い当たる節がいろんなところにある。
実際にかなわないこと、願っても仕方ないこと、現実的ではないことはたくさんある。花岡の死も、そういうものだ。
けど、願いが通らない前提で「仕方ない」を持ち出していないだろうか。というか、「仕方ない」の癖がついてしまって、本当はかなうものをかなわないものにしてしまっていないだろうか。
このシーンから私が受け取ったものは「現実を見る前に、自分の内面を観察して、感情をみとめること」。(できている人からしたら、当たり前の話なんだろうな。)

昨日歯医者でながれていた朝の番組で、少子化問題を取り上げていた。東京では出生率が0.99。検討使と呼ばれて久しい首相が「異次元の少子化対策」を打ったとしても、0.3%あがればいいところらしい。
私は反射的に、(だろうね、産みたくない社会にしたの誰だよ。なんだよ異次元て。)など思う。これは、私の中の轟の「仕方あるまい」だ。少子化の現実と、自分が産んでいないことをつなげてすぐ納得しようとする。
これ、本当はどうなの?って自分の感情とか望みを観ておく必要あるなって思った。

他者に対してはともかく、自分に対して強がる必要性なんてなくて、口に出せなくても自分が望むことは、どんなことでも認めて受け入れていきたいです。

今回の朝ドラ虎に翼は、こういう内観の機会がたくさんもらえるから繰り返し見てしまう。こうやって文章にしていくことも続けていこう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?