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自分にきびしくして、いいことなんてない。

6月25日(火) 夜

今日は体が重たくて、それに抗えなくて半日くらい横向きだった。猫もずっと寝ていて、ついつられてしまう。私は自分にあまい。

自分にきびしかった時がある。セラピストをしていた十数年前のこと。とても気を張る仕事だった。自分の技術がそのまま評価になる。それがとても楽しくもあり、プレッシャーにもなった。

会社に属していると、仕事の頑張り方はとてもわかりやすかった。当時、誰よりも動いて誰よりも結果を出して、上司にも部下にも尊敬される人がいた。頑張り方のロールモデルとして、とてもわかりやすかった。私はセラピストの仕事を始めた時、自分の足で立ちたいと思っていたからわかりやすく影響された。その人を慕い、真似をし、私はその小さな組織で認められた。望んでいなかったけど、社員にならないかと言われ、自分を認めてくれる人がそう言うならと、社員になった。地元を離れて、職場の近くに引越しした。それ以来、今もその土地に暮らしている。

社員だった2年間、技術を管理する役割もあったので、まず自分の技術を磨こうと思ったし、そうしない人のことを「どうかしている」と思った。認められた自分が、認められるように頑張った自分が誇らしかった。なんで皆そうしないのかと思ったくらいだ。そうして人に厳しい私が出来上がった。今では、新自由主義の自己責任論がだいっ嫌いだけれど、当時の私なら、ハマっていたかもしれない。あいにく、休みなく働いていたのでニュースも見ず、恥ずかしながら政治にも関心のない私だったので、どっぷり浸かることにはならなかったのだけれど。厳しさを自分にも他者にも課していた。自分にもできたのだから、あなたにもできる。ということを言っていたかもしれない。そういう時代だったかもしれないけれど、良くなかった。

思い出すだけで、ちょっとしんどい。怖い。自分に厳しくしていいことなんてなかったなと思う。悪いことはないのかもしれないけど、人と近くなるとどうしても自他の境界が薄くなり、相手にも厳しくなり、不寛容になりやすい。自分に課した厳しさを、皆が乗り越えられるわけがないし、自分に課さなくていい厳しさもあるはずだ。

その会社を辞めて、10年前に先日退職した会社に入った時、まだ不寛容な自分が残っていて、ゆるい社風にびっくりしてはじめついていけなかった。「わかりません。」「覚えていません。」と言える人がたくさんいて驚いた。ちょっとイライラもした。

あれから随分経って、私は自分にあまくなった。人にもあまくなった。数年前には、人生で初めての遅刻をした。しかも、その後何回もした。寝坊した時びっくりしたけど、遅刻を自分に許せるようになったんだと思った。できないことがあっても、それがその人をかたどる特性で、それがいとおしさにもつながるということが分かった。昔の私は、そういうものを拾えなくてもったいないことをたくさんしたんだろうな。

自分にあまくなってから知り合って仲良くなった人たちは、やさしい人たちばかりだ。

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