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誰が不惑の40て言ったの。

6月24日(月) 夜

今日は手をそろえて寝ていた猫。梅雨入りして、湿度が増しているから猫のにおいもとても良い感じだ。

今週で6月も終わり。半年かけて、暮らしの土台が定まってきたように思う。お金のことだけを考えれば、もっと動いて収入を得ることにフォーカスしただろうけれど、退職後、兎に角考えていたのが「焦ってもそれに引っ張られないこと」だ。たまに浮上する焦る気持ちに対して、「何のためにフリーになったの?目先じゃなくて長期的に考えて。」と自分に言ってきた。そのおかげでできた土台と、得られた穏やかな心は何物にも代えがたい。そして、それができる環境に感謝だ。

不惑の40、言ったのは孔子ですね。「四十にして惑わず」、あまりにも有名だけど、40を過ぎて2年が経って、「そんなことねーよ」としか思っていない。42歳、こんな感じになると思わなかった。
何でこんなこと思ったかというと、今日、去年の手帳を見返していたから。去年の私(41歳)もめちゃくちゃ惑っていた。惑っていることにも気づいていない時もあった。数か月経って振り返ってみて、気づく。それからもっと過去にさかのぼって、気づいたことがある。

若い頃、無知がゆえ迷うことも少なかった。知らないということは決断するにあたってのソースが少なくて済む。人の気持ちやバックグラウンドのバリエーションを知らなかった。一つのものごとを決めるにあたっての、選択肢の多さも知らなかった。生きていくことには、ある程度テンプレートがあって、それに沿えばいいんだと思っていた。
だから、人と関わる時、そのテンプレートに沿って関わっていたんだと思う。家族なら、友達なら、恋人なら、上司なら、後輩なら・・・それぞれに自分のテンプレート=当たり前を当てはめて、接していたと思う。20代の自分を殴りに行きたい。

42歳の今、無知が怖い。無知なりに、色々学んでみて自分の当たり前なんてどこにも通用しないんじゃないかと思っている。だから惑う。大切にしたいものごとにおいては特に惑う。人もそう。これからもっとそうなるんじゃないかな。それでいいや。

自分の考えていることを主張する時、誰かを傷つけていないかと思う。けど、自分の主張を伝えることもやめたくない。ずっとその間で、惑っていくんだろうな。それでいい。
それから怖さがある。自分の考えや思いを話す時、受け入れられないんじゃないかという怖さ。それが誰かとの関係性を変えてしまうかもしれない怖さ。だから昔は断言してしまうことも多かった。これからは怖さを抱えて、大切な人たちと対話していきたい。昔の記憶にひっぱられず、今自分と対話してくれている人たちのことを大切にしていきたい。
そして、こういう風に思えるようになったのは、自分が知識を得たからではない。大切にしたい関係性があるから、そのために色んなことを知りたいと思えるようになったんだ。

いつも同じような考えに行きつく。やっぱりまずは自分の目の前のことからだ。外に向けるんじゃなくて内側だ。そしたら争いだってなくなる。

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