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私なりのプール理論⑦

 毎朝コーヒーを淹れている。2種類以上の豆を常備しているのは、”選べる”ことが自分にとっての贅沢の一つだからだ。今は、パプアニューギニアとグアテマラ、追加で買ったエチオピアもある。今朝はエチオピアにした。豆は、いつも友人が焙煎しているものを購入している。

 ここまで書いて思い出したのだけど、前職を離職した理由の一つに「資本主義と距離を置きたい」というのがあった。これを言うと、「資本主義からは逃げられないよ」と言われがちである。けれど私の今の生活を観察すると、逃げられてはいないけれど、距離は置けているのではないかと思えた。退職前から、何かを買う時になるべく大量生産大量消費のものには手を出さないようにしていた。けれど、働いている場所がそれ(資本主義)そのものだったのが、どうもだんだん自分と馴染まなくなってきていたのだ。そう思うと、今その感じがない。逃げていると言われればそうなのだけれど、適切な距離を保つことによって、自分に平和をもたらした。これは大切なことだ。

  昨日のnoteで書いた、「私なんて」が引き起こすプールの枠の崩壊メカニズムの続き。自分が昔やりがちだったことを思い出した。私は誰かに近づきたい、気にかけて欲しいと思う時、自分の不幸を差し出す癖があった。例えば友人に対して、パートナーの愚痴を言う。パートナーに対して、仕事が大変だと言う。今思い出すとなかなか謎だけど、たぶん「かわいそう」とか「大変そう」と思われて、他者に寄り添ってもらいたかったのかもしれない。これはプール理論で言うところの「相手のプールに飛び込んでいる」状態。飛び込まれた側は、そんなことをされても「?」だ。
 そして、これをどのタイミングからか分からないけれど、全くしなくなっていることに気づいた。けどこのタイミングが、私のプールの枠が出来始めたタイミングではなかったのではないかと思う。
 あとこれ、ジェーン・スーさんがよく言う”受動的攻撃性(パッシブ・アグレッシブ)”に近い。私、今大変なんです、辛いんです、なので私が辛くないように寄り添ってください、というアピール。具体的に「〇〇してほしい」という望みは言わない。相手が自分の思うような反応をしない場合、さらにその態度を強める。とても面倒くさい状態だ。

 人に対してのこういう態度は、あまり良い結果をもたらさないし、自分も何かすっきりしない感があった。けど、こういうやり方しか知らなかった。自己開示しているように見せて、人が何かをしてくれるのを待つ。けど自分で何も対策をうっていない(=自分のプールで泳いでいない)から、相手もプールを荒らされて困る。
 万人に好かれたいとは思わないけれど、今も人に好かれたい、好ましく思われたいという気持ちはどうしたって湧く。そういう時、相手を不快にさせないこと、機嫌をとることを優先しそうになる思考回路がまだ残っているなと感じることがある。最近は、これにすぐ気づいて「あ、またやってるわ。というか、そもそもあなた(自分)どうしたいの。」と自分の感情、欲望に戻すことが出来るようになった。
 いい調子だぞ、自分。

 それに加えて思い出したことがもう一つ。前職で、どうも一定数私の機嫌をとるような行動をする人がいたこと。単に私が謎の落ち着き(怖くみえる)を携えているからというのもあるけれど、あれもプールの枠問題だったのではないかと思えてきた。この続きはまた。

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