僕の愛した「彼女たち」はもう居ない。

ハロー、嫉妬に狂うたびにnoteを執筆するタイプの物書き、紅花だよ。
突然ですが皆さん、なるせさんの書いたnoteは読みました?

なんていうか、まあ、これが言葉にするのが億劫なくらい良かった。最高だった。最高に、人間って感じがした。その尊敬と感謝をこのnoteにつらつらと書いても良かったのだけど、そのために尽くす言葉を僕はたぶん、持っていない。……持っていないように思える。
 
だから、贖罪でもするかのように、言い訳でもするかのように、僕の愛した「彼女たち」の話をしたいと思う。ただ、このnoteには彼女らを貶めたい気持ちはほんのひとかけらだって込めていないつもりだし、僕は彼女らがまだ好きであるという自負もある。その点だけ、どうか覚えていて欲しい。

僕の愛した「彼女たち」。

ここでいう「彼女たち」というのは、もちろん「かえみと」のことである。厳密にはたぶん、「かえみと」以外の一期生なんかも含むはずだけど、ここでは分かり易く話を進めるために、「かえみと」に話を絞りたい。

他人に指摘されるまでもなく、僕は月ノ美兎と樋口楓――「かえみと」を愛していたと言っていいだろう。僕の3月、4月、5月までは彼女らにささげたと言ってもいい。

彼女らの放送に一喜一憂した。ニコニコの「これが嫉妬ってやつかあ」の動画から樋口楓にほれ込んだ僕は、彼女と月ノ美兎の動画、生放送を全部追った。(その頃流れていた不仲説を信じたくない一心で)放置しておいた放送待機画面から、「ちょっとおしゃべり!」が流れたときは冗談抜きに涙を流したし、お泊り配信はわずかな音にすら反応した。

僕のツイートは、4月の半ばには他人に見せられたもんじゃないツイートばかりになって鍵垢になったし、ネトストじみた考察をしたこともあるし、鍵垢の中で同じような他人と関わった。やってることは最低だったかもしれないけど、僕は「かえみと」という関係を本気で追いたかったし、追っていたように思う。一日に何本もSSを書いた。彼女らの未来を勝手に補完しようと、シリーズものにしてみたりした。オフラインのイベントは全部応募した。僕の愛は、確かに彼女らに注がれていたのだ!

だけど、それはもう過去のことだ。

「かえみと」を求めない人たち。

じゃあ、今の僕はどうだろうか。正直なところ、月ノ美兎の配信も、樋口楓の配信も、ほとんどまったく追っていない。Vtuberの動画を見る頻度自体が下がったこともあるが、ゼロになったわけじゃない。あの頃の僕なら、ツイッターのライムラインがざわつけば、すぐにでも動画を後追いしたはずだ。

だけど、今はそうしていない。「ま、気分が向いたら見るよ」程度の、ひどく冷めた気持ちばかりが湧いてくる。僕にとってはもう、「かえみと」はたいして興味をそそられないコンテンツなのだ。タイムラインの皆のように、「かえみと」の放送で盛り上がることができないし、ツイッターの同時浮上があっても考察なんかしない。

そして、具体的に誰、って訳じゃないけど――僕の周りでもちらほらと、「かえみと」はもう見なくていいよね、って人は居るみたいだ。

もちろん、興味のある放送は普通にチェックするし、彼女ら単体の動画を見ないわけじゃない。「かえみと」と銘打つようなコラボ動画を、一生懸命視聴することはない、ということだ。

ある友人は、これを指して「かえみとはもうファンディスクの領域だからね」と称した。天才だと思う。そうなのだ、「かえみと」はもう、終わった。正確には、「僕の愛したかえみと」は終わったのだ。

「関係性」のオタクは鍵垢で転げる。

僕はたぶん、関係性萌え(死語)のオタクだ。

月ノ美兎単体よりも、月ノ美兎の作る関係が好きだ。樋口楓から月ノ美兎に向く矢印が、エルフのえるから樋口楓に向く矢印が、その矢印たちがつくる複雑怪奇な関係性こそ、僕の萌える対象なのだ。

その僕からすると、「かえみと」はもう終わってしまったように思える。こういうことを言うと嫌がる人は必ずいるけど、あれもうは百合営業にしか見えないのだ。月ノ美兎の声がちょっとふにゃふにゃになったり、樋口楓がにやけるあまりスマホを倒すのだって、僕には百合営業に見えるのだ。いや、そこに関係性という名の「本物」は確かにあるのかもしれないけど、「Vtuberの月ノ美兎と樋口楓の放送」として流されたそれは、フィルタの掛かった「オタク君向けコンテンツ」でしかない、なんて思ってしまう。結局、それを味わうことは、今の僕には難しいみたいだった。

レベリング配信の緊迫感は失われた。3月末の不仲説は陳腐になった。月ノ美兎も樋口楓も人気者になって、配信に慣れて、危うさは失われた。あの頃の、3月の、4月の、もっというなら寝落ち配信前の。ふたりの関係性が確定するまえの、「あれ」が好きだったのだ。「あれ」こそが僕の愛した「かえみと」であった。いつ壊れてしまうか分からないガラス細工の関係性こそ、僕の信じた愛だった。けれど、冷えて固まって、確かになったものに魅力を感じなくなってしまった。

ハッピーエンドだろう。二人は有名な配信者になって、にじさんじを引っ張って行って。にじさんじに興味がない人だって、名前くらいは知っていて。すごい人だ。すごい人たちだ。だけど、そこに不確定な揺らぎはない。本物の感情は、彼女たちの奥に隠れてしまった。その感情のおこぼれを、彼女らにおこぼれを貰うことはもう、ほとんどできない。

僕は、彼女たちと僕との間に、僕自身の感情を挟み込む余地を見失ったのだ。「どうせ裏で楽しくやってんだろ」の一言で終わってしまうものは、断じて僕が愛してきた「関係性」などではない。

僕の愛した彼女たちはもう居ない。――けど。

プリキュアとかで良く言われているらしいのだけど、「楽しめなくなった時点でそのコンテンツの対象年齢から外れてる」らしい。だから僕はきっと、「かえみと」というコンテンツのマーケティング対象じゃないんだろう。

幸いというかなんというか、おあつらえ向けに新三馬鹿、みれろあ、笹リゼ、さくゆい、おしぃりぃ――にじさんじにはまだまだ不確定性カップリングは存在している。そこには、あの日愛した不完全な関係性が、ガラスのように張り巡らされていると信じている。

だから、そこにはきっと、あの日の「彼女たち」が居て。
その「彼女たち」はいつか、そこからまたいなくなって。
そして、別の人の元へまた、現れるのだろう。

僕の愛した彼女たちはもう居ないけど。
僕の愛した「彼女たち」という関係だけは、いつまでも追っていけたら。僕は今はもう「かえみと」を信奉してはいないけれど、関係性を愛することを教えてくれた彼女たちに対する感謝の念ってものを、もう少しだけ素直に口に出せそうな。そんな気がする。

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