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保命酒の歴史

見つけてしまったのだよ。

探してたものが。

戦前、もしくは戦後直後であろう古い保命酒

左:現行の岡本亀太郎本店の保命酒
右:1940年代の岡本亀太郎本店の保命酒

今日は日本の薬草酒

保命酒以外にも
日本にもたくさんの薬草酒があり
現代にも受け継がれている


養命酒、桑酒、順徳酒、保命酒、梅酒、
忍冬酒、紫蘇酒、加賀菊酒、肥後の菊酒、
あやすぎ酒、せうせう酒、延寿酒、蘭麝酒
機那サフラン酒、皇帝酒、陶陶酒、浅芽酒
霙酒、枸杞酒、赤酒、菖蒲酒、蝮酒、鳩酒




奈良時代から江戸後期までと
滋養強壮健康を目的に又はそこに美味しさを
求め日本も海外と同様同じ道を歩んでいた。


明治以降は海外流入品が増え
薬用葡萄酒(ワインに糖分とボタニカルを浸漬)
なども盛んにリリースされお酒を嗜む事が
公然と認められていない女性にも薬用という
謳い文句であれば嗜む事ができ人気を博した



残念ながら戦後の薬事法の確立により
生産者は薬としての立ち位置を選ぶか
嗜好品としてのリキュールの立ち位置を
選ぶかの選択に迫られ今日においては
その発展性が止まってしまったように思う




例えば養命酒は戦後は薬としての選択をとり
Barでは扱えない。薬局でのお求めとなる。

その中でも保命酒
養命酒と同じくらい歴史があり
広島県福山市鞆の浦にある
万治二年(1659年)より続く
伝統的薬草酒である保命酒が存在する

こちらはリキュールとしての扱いとなる。

養命酒は薬
第2類医薬品(>滋養強壮保健薬>薬用酒)

保命酒はリキュール
(酒類と糖類その他の物品)


これは戦後においての薬事法制定により
以前から存在していた伝統酒は
どちらかを選択できたのだ。


ざっくりと、保命酒を説明すると

砂糖が希少だった時代(明治以前)
日本では甘みというのは
麹による糖化作用で造り上げる
味醂であり、そこに薬効を求め
ボタニカルを浸漬した『十六味地黄保命酒』

いわゆる保命酒は味醂薬草酒だ。

これは養命酒も同じ味醂薬草酒。





今日は日本の薬草酒であり
薬ではないリキュールとしての
選択肢を選んだ保命酒について

左から
八田保命酒舗 
岡本亀太郎本店
鞆酒造
入江豊三郎本店




現在保命酒は
4つの蔵で作られ
全て鞆の浦の地域で生産されている

①八田保命酒舗

② 入江豊三郎本店

③鞆酒造


そして今回は
岡本亀太郎本店の社長である
代々この地で続く岡本社長にお話しを
伺った。


このタンクで味醂を製造


出来上がった味醂に袋詰めしたボタニカルを
味醂に数ヶ月浸漬してできあがるのだ。

ボタニカルのレシピは
現在の製造元である4社の保命酒では
多少の違いがあり
主に熟地黄、川キュウ、芍薬、当帰、沢瀉、茯苓、白朮、肉桂、甘草、杏仁、葛根、丁字、砂仁、山茱萸、山薬、檳椰子となる。

ラベル貼り風景




ここから保命酒の歴史についての流れを
軽く触れていきたい。




①保命酒の始まり
漢方医であった中村家による相伝の薬法

始まりは万治2年(1659年)が保命酒が産声を
あげた年である。
大阪で漢方医であった中村家が
当時の福山藩(広島県)鞆の浦にて開業。
いわゆる味醂造りにおいての工程で
ボタニカルを浸漬させる
『十六味地黄保命酒』を造りあげる。

保命酒はすぐに人気を博し他の酒造社が
真似を始めるが中村家は当時の福山藩に
働きかけ保命酒は中村家以外は造れない
という請け書を提出し認められる。

それが宝永7年(1710年)

これにより当時から既に全国で人気を博していた
保命酒は生産.販売の全てを福山藩公認のもとで
独占する事ができ巨万の富を得る。
そして漢方医であった
中村家の一子相伝(一人の子だけに教える)
秘伝の歴史が脈々と受け継がれてゆく。
そう、
それはさながらフランスの
修道院リキュール400年以上の歴史を持ち
レシピをトップの修道士2人にしか伝承しない
シャルトリューズリキュールの様

現在作られてる保命酒の4つの蔵のうちの1つ
八田保命酒舗の看板




②明治以降における保命酒

先ほどシャルトリューズを引き合いに出したが
シャルトリューズを知らない方は数年前に書いた記事を参照して欲しい



保命酒とシャルトリューズは似ている。
同じ薬草酒だからという訳ではない。

まずシャルトリューズは
1789年の市民革命であるフランス革命により
追放。またフランスに戻ってきても
1905年に制定されたフランスの政教分離法
国政、国家と表裏一体だった宗教を
完全に分離させる法だ。
シャルトリューズ修道会はスペインに亡命。
秘伝のレシピは流出する事はなかったが
既得権は失われシャルトリューズの模造品が
1900年代以降横行した。

シャルトリューズ蒸留所内にある当時の
模造品展示コーナー



保命酒も同じ道を辿った


1867年大政奉還が行われた日本の大転換機。

江戸から明治に切り替わり廃藩置県が行われ
福山藩はなくなり
中村家は保命酒の専売制の既得権を
失う事となる。

そうすると何が起きるか。

当時から名を馳せていた保命酒が
専売制の既得権を失えば
これ見よがしに保命酒を新たに名乗る
生産者が次々に現れ価格競争の時代に突入。
一子相伝だった保命酒が明治以降において
数十軒の蔵が保命酒の生産を始めた。
値を下げなかった本家は
競争に敗れ1903年に廃業。
それに拍車をかけ
1900年代初頭の大正時代から
昭和初期にかけて観光地でもあった
保命酒の故郷の鞆の浦では
熾烈な客引きが行われた。


シャルトリューズの模造品が横行したのが
1905年以降〜

保命酒の模造品が最も横行したのも
本家保命酒が廃業した1903年〜




二つの薬草酒が似通った運命は
鹿山的にはドキドキせざるを得ない。



また保命酒は1867年に行われた
パリ万博において出品をされている。
その時には保命酒カクテルも
アペリティフとして上流階級に
振る舞われたという記述を発見。

【レシピ】

保命酒
卵黄
クラレット(ボルドー産赤ワインのこと)



美味そうじゃないか。



保命酒は戦前までは数十件の酒蔵が
製造をしていたが昭和40年代を境に
様々な海外輸入品の波に押され減少

2021年の現代においては冒頭で紹介した通り
4つの酒蔵のみとなった。

八田保命酒舗 
岡本亀太郎本店
鞆酒造
入江豊三郎本店

万治2年(1659年)から保命酒がスタートし
本家である中村家の一子相伝のレシピ
その後の廃藩置県によって福山藩の庇護を
失い本家は廃業。

いま残っている蔵は中村家があった
広島県鞆の浦で製造をしており
中村家と所縁のある酒蔵である。

一子相伝は変われど、
こうやって保命酒という名を脈々と
繋ぎ止めているというのは
素晴らしいことだなと思う。


だから歴史は面白い。


日本が誇るボタニカル味醂リキュールの歴史


バーテンダーの僕もお客様に伝えてゆきたい

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