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28 死んでもまた会えるのか

つい先日の夕食時に、小1の孫娘が母親に「ママ? 〇〇ちゃん死んだらどうなっちゃうの? 考えたら寝られなくなっちゃった」と口にしました。大人の間でそこを共有出来てなかったのでどうしたものかと思いましたが、兄である小2の孫が「〇〇は、ママが死んだらどうなるかが心配だよ」と応じたことで、話がそこで止まったのでひとまずその日は終わりました。大切なことなので大人がきちんと整理し、それだけではなく子供たちの成長に合わせてどう考えさせるかを決めなくてはいけないと思います。

その大人の整理について、自分の思っていることを書きます。まず前回書いた通り、恐山には曹洞宗のお寺があってお寺のご住職がご自身のお考えを書物にしておられます。一方でそれとは別に「イタコさん」という方々が実際に死んでしまわれた方と会話をされてご遺族のあいだに立って通訳をされるそうです。せっかくお参りするのなら「イタコさん」のいらっしゃる日に行けばいいのかもしれませんが、わたしは通訳がいらっしゃらなくても亡くなった家族とは会話できるなら構わないじゃないかと思うほうです。

恐山という場所の持つ独特の世界観というか空気に触れることが、どうやら自らの宗教的感性を育みそうなことは確認できましたが、それはよく言われる「霊感」を強くすることとは違う方向でとらえてもよさそうです。仏教でも「霊」を深く掘り下げる宗派もあれば、曹洞宗のような「禅」に目を向ける派もあったり、ほかにもいくつかの導き方の違いがあることは多くの方もご存じの通りです。それらが複数混在すること自体、死んだらどうなって残されたものとどう会話するかは唯一の答えとして解明されていないことの証です。

ただ、導く側にとっては科学的な解明ではなく、宗教的な解決は済んでいるということです。そしてそれを僧侶や門信徒がそれぞれの理解に努めようとしていることに意味があります。亡くなったあと戻ってきた人類はいないし、実験も出来ないので科学的には解明されるはずがありませんが、どうとらえるかを考えてさらにまた考えて行きついた解決方法は、複数ケースあるわけです。

私個人に関して言えば、もし自分が息を引き取るとすればその0.00・・1秒前まで「あぁ生きてきてよかった、0.00・・1秒後には別の場所に移ってあの人やこの人とまた楽しくやりたいな」と思えるような0.00・・1秒前までを今から大事にしたいと思います。たとえ突然その時が訪れたとしてもそこまでを大事に出来たら、それがまさに「死んでも死にきれない」の反対語としての「死に切る」ことだと思います。

かといってあの人やこの人に会える証拠は握っていません。ただ、わたしがお世話になっているお坊さんの中に「あの方には会えそうな気がする」と思い込んでいる方がいらっしゃいます。そしてそのお坊さんに会えるなら、また別のお坊さんにも会えそうな感じもするし、おやじにも、いま一緒に集っている仲間にも会えるかもしれないと都合のいいように連鎖して解釈しています。それでじゅうぶん、解決に値していると思っています。

大事なのは「あの方には会えそうな気がする」というその人はどんな方かということです。よく言われる「霊感」を強く持たれる方ではありません。でも会えそうな場所をご本人がはっきりわかっておられるようで、そこに行くことを宣言されていて、それをいつも私たちに手を変え品を変え話してくださいます。その姿があまりにも美しく、ひとにやさしくされていることを知っているので、ついていきたいなと思わせる方なのです。

こういった話し方を小1や小2の孫にどう話すか。その子らが幼稚園でならっていた「ののさまのうた」にひっくるめたところで腑に落ちるのか、また親たちと共感できるのかもう少し時間が必要です。

スタジオジブリのかぐや姫というアニメに「いのちの記憶」という主題歌があります。シンガーソングライターさんは、浄土真宗の女性のお坊さんです。また別のシンガーソングライターが書いて歌われる「いのちの理由」というのは、浄土宗の宗祖法然さんの節目の法事のために作られたそうです。
ふたつの歌には共通して「この世の営みの大切さ」「生まれてきた奇跡感」「また会える感」がほんとうに豊かに表現されているので、いつも聞く時はツーンと来ます。ただカラオケで歌う時は、メンバーや時と場合を選ばなければいけません。