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39 倫理は自由で、道徳は強制という論

仙台のお寺の拠点で行事が計画されていました。あの大震災から6年後に全国の門信徒が一堂に会する千人規模の大会。その事前打合せにお邪魔しようとしていた駅からの道中、大きなガラスウインドウに書かれた文字に眼が留まり自然に足も止まりました。言葉を追っていくと深い言葉だなぁと引き込まれ、最後に本を読んだことがあった哲学者さんの名前がありました。そこでビルの中に入ってみたら、震災後にその方が発起人として創られた施設だということがわかりました。てつがくカフェというコミュニティを開催しているとのことで、偶然その方のお姿もありました。

さて、見出しの言葉はほかの哲学者さんの本で読んだ言葉です。「倫理は自由で、道徳は強制である」と断言してありました。自分はストンと腑に落ちて好感を得たのですが、人はどう感じるかなと思ってネット検索するとやはり感覚の違いではないかという意見も目にしました。

こういう時はまず一旦「倫理と道徳」の言葉を横において、「自由と強制」という言葉から先に考えるほうがいいと思います。語り手が仰りたいことの本質は「道の歩み方における自由と強制」であって、「倫理と道徳」という単語の定義はそのあとで良いと思うからです。真理の道を歩もうとする時は誰かから強制されるのではなく、自らの洞察が必要と立ち止まる。洞察・真理の道・自らの追求、ただ漠然とではなんくちゃんと考えましょう、同時に様々な声に耳を傾けつつさらに深く考えましょう。まずはそこではないかと思います。

ではここでいう「強制」とはどういうことか。幼い子供に「散らかしたおもちゃはかたづけなさい」と言うとか、電車で「ひとりでも多くのお客様が座れるように詰めてお掛けください」とアナウンスするとか、いい方の強弱はあれどいずれにせよ外側から働きかけることでしょう。わたしは「多くのご先祖のおかげで君が居るのだからご先祖に感謝しなさい」「親に感謝しなさい」と言うことも外側からの働きかけに属する気がするので、個人的には口にしないようにしています。

F 道徳

「強制」で人を動かすのは、幼い子供までで良いという考えに賛同します。この写真の電車で寝ている「お客様」は幼いころの子育てに難があったように思います。こじつけるみたいですが「親に感謝しなさい」ということを外から押し付け過ぎると、マナーの悪い親の子どもはマナーが悪くなることに繋がりませんか? 幼い子供に対してさえ、おかたづけの時も「さぁまず赤い色のついたおもちゃから先におもちゃ箱にもどそうね、よーいいドン」とゲームみたいにすると良いってラジオで子育て先生がしゃっべてました。そのほうが大きくなってもものの道理をわきまえるということでしょうか。

そしてここで考えたいことは、総じてこういう強制の範囲ってスケールが小さいですよね。マナーや心構えの範囲ですね。もちろんマナー知らずの度が過ぎて犯罪に及ぶとそれは大きなスケールに拡大しますが、要するにこれらの強制で見届ける範囲を「道徳」と呼んでいるのではないでしょうか。

そこで横に置いておいた上述の言葉「倫理と道徳」を引っ張り出してみます。道徳で納めきれないその外側にある範囲に目を向ける。いや事象は外側でも、本質は心や意識の内側で見ていかねばならないスケールの大きなことに目を向ける。人生という道の歩み方における自由なことはずーっと深いところにある。そこを「道徳」と「倫理」と区別して哲学者さんが表現されたのだろうと思います。

そしてその倫理を深く深く極めていく行為が哲学というものではないでしょうか。仙台の建物の大きなガラスに書かれた言葉には、すごく大きなスケールを感じたのです。