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⑤ 論じて、それが次の何かのためになったのか

過去に議論のための議論をした、良くない思い出があります。正論を吐くことだけが目的。自分が相手より筋が通っていることを証明することだけが目的。それが次の何かのためになるかどうかなどお構いなし。傍で見ていた方が「聞くに堪えなかった」と私に直接ではなく、上司に報告されたことを知り、崖から突き落とされたような気分を味わいました。どうしようもなく嫌な自分が思いだされます。そこから先のステップへの発展にも何にもならなかったのですから・・。

最近「わきまえる」という言葉をよく目にします。良くない意味で使われています。言いたいことがあったとしても、その場の多数派の意見を持つ人の流れを読んで「我慢できるのが大人」であるかのような考えは、男性社会の悪しき慣習だという論調です。その通りだと思います。そのことによって何かのためになったかどうか、次のステップに進んだかどうかで議論の必要性が問われるのだろうと思いますので、ここでいうところの「よくないわきまえ方」というのは「意見を我慢して多数派の意見だけから結論を導くように取り計らう」ということでしょう。

この件では「どうせわたしはわきまえない人間です」などという反論が出たりして、重要ポストの人事にまで発展しました。ただ当時わたしが「わきまえないで正論を述べる議論」をしてしまったのはここでいうケースとはちがっていたので、ただしく「わきまえる」ことを学ばなければいけないと反省した次第です。

テレビで放映される議論を聞いていて、当時の自分を思い浮かべるような場面が展開されると電源を切ってしまいます。自分の過去に思い当たる部分があることは、あまり気分のいいものではありません。