31 課せられた場所
日常では聞き慣れない言葉ながら、これに触れて心底から納得した思い出があります。10年以上前のこと、自分たちの仕事をほかの視点から見てみようという話し合いがあって、キリスト教の教会に電話をして「仏壇を扱っているんですが、お話を聞かせてくださいませんか」とお願いをしました。敷居の低そうなところがいいとネットで見つけたのが下町の住宅街の真ん中にあるプロテスタントの教会でした。牧師さんの電話対応がとても感じが良く、ワクワクしながら訪ねました。
日曜のミサの時間に我々は2人でお邪魔したのですが、扉を開けて入った時の対応もすばらしく瞬時に心が開かれている感じを受けました。ミサが始まる前に信徒さんたちに私たちのことをご紹介くださり、終わったとも信徒さんたちの輪の中に混ぜてくださって声を聞かせてくださいました。個人の立場ではなく会社の立場でお邪魔しているのに、みなさまがまったく日常と同じような振る舞いや受け答えをしてくださったことは驚きでした。よく「業者」として扱われ慣れていたので、そう感じました。
そしてこちらの緊張が和らいだころ、牧師さんがこうおっしゃいました。「お仏壇はいいですねぇ。お仏壇屋さんでキリスト教のホームチャペルも取り扱っていただくのもいいんじゃないでしょうか」「私は信徒さんがお部屋にホームチャペルを迎えられたと知ると、跳んで行ってお祈りをします」「その瞬間からそこが『課せられた場所』になるんですよ」と。
『課せられた場所』という概念は、普遍的な感じがして心地よく聞こえました。ここまで note に投稿した大宇宙や大自然と呼んでも足りない大きな存在とか、大仏さん、恐山、グリーンツーリズムの保養施設での座禅のなどの場は、総じてそこに手を合わせる人々にとって『壮大な存在感を持った、わが身を照らす場所』であり『パワーレススポット』でもあり、『課せられた場所』という概念にほぼ等しいと思います。
もちろん仏壇だって、きっとそういうものです。仏教の多くの宗派では同様の行為(法事)を「魂入れ」といったり「性根入れ」といったり、僧侶がお仏壇の中のお仏像やお位牌の中に、何やら不思議なものを注入するイメージでとらえられます。またわたしの所属している宗派は、何やら不思議なものが物理的に存在するという考えはありません。お位牌という存在もありません。しかし同様の行為(法事)はしっかり存在し、それを「入仏式」と呼びます。「な~んだ言葉の違いじゃないか」と思われる方もいらっしゃるでしょうが概念は違っていて、その行為の瞬間から家族にとってそのお仏壇の場所が『仏さまの場所』になるということなんです。
この光景は京都伏見稲荷の坂の上にある場所です。何年も続けて外国人に一番人気があるというこのお稲荷さんは、赤い鳥居が幾重にも重なっておりその下をくぐって一周します。そして自分は、ところどころにあるこういった鳥居を納める場所にパワーレススポット感を感じて好きです。
わたしが宗教的感性の必要性とそれを保つことで得られる自己肯定感とは、1人1人にふさわしい、『普遍的な課せられた場所の感覚』を持つことの必要性と、その感覚について何故だろうと疑問を持ち説明を読んだり聞いたりしながら、何度も繰り返して自分なりに考えることで身に着くんだろうと思います。細かい教義の差を議論いただかなく必要は無いと思います。