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11「死に切る」と「~切る」ということば

「死に切る」ということばに初めて出会ったのは、当時の職場の社長が用意してくださった、月に一度のアフターシックスの勉強会の日のことです。その日まで後悔の念を含む「死んでも死にきれない」という言い回しは聞いたことがあっても、「死に切る」という言い方を聞いたことがありませんでした。そして即座に「いつか死ぬなら死に切りたい」と、直感的に共感したことを鮮明に記憶しています。

ついでながら、見出しの写真は琵琶湖越しに見た朝日です。仲間と湖西の旅館に泊まった際に屋上から写したものです。朝日なのに「死に切る」ということばが浮かんで、仲間の前で語ってしまいました。

「生き抜く」という言葉は職場の朝礼で唱和していたこともあって、意味を感じて理解はしていました。このことばを含む「浄土真宗の生活信条」は、私にとっても欠かしたくないものであります。しかし申し訳ないのですが「生き抜く」という言葉は「生きた証を遺したい」ということばと同じで、個人的な生理に馴染まないのです。それに比べるとアフターシックス勉強会の先生がつぶやかれた「死に切る」は、自分の生理に馴染むのです。

そこで「死に切る」ってどういう意味なんだろうと検索してみました。するとある大学教授の、明解な「~切る」についての論文が目に留まりました。横軸に時間、縦軸には変化の状態を示した図解が載っていて、なぜだか心地よく思えるものでした。

論文によると大きい分類では、「噛み切る」「断ち切る」のように切断する意味をはっきりと持つ「~切る」と、切断する意味をはっきり持たない「~切る」に二分されるそうです。英語のキルは前者ですね。


さらにその後者は、「走り切る」のように最後までやり残さず行う「行為の完遂」、「諦め切る」のように当該の変化が最後まで滞りなく生じる「変化の達成」、「疲れ切る」みたいに既に達成している状態のさらに先の「極限の状態」に三つに分けられると述べられていました。

その中で「死に切る」は、「諦め切る、氷が溶け切る、日が暮れ切る」などと同じで「切断する意味をはっきり持たない、変化の達成」に分類されるようです。「信じ切る」もこの分類だそうです。

横軸に時間、縦軸に変化の状態を置くと、死ぬ瞬間まで死んではいないが死に向かう変化量が増していって、死んだ瞬間に死んだ状態を100%達成するという解釈です。自分の生理に馴染むというのは、つまりそういうことです。

勉強会の先生は、こうも仰っておられました。「自分の感じる究極の幸せは、誰かたったひとりでいいから、臨終の時に耳元で『あんたの人生はとってもいい人生だったよなぁ』って言ってもらえることだと思ってます」と。