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シ 「剛速球を受ける」が法話に

昨日、日本人大リーガーの大きな写真が2枚も新聞のTOPに載りました。目に入った瞬間は、たとえ夕刊だとしてもほかにニュースが無かったのかなと正直に感じました。しかし1回表に時速100マイルの剛速球を投げたかと思うと、その裏の攻撃で同じようなスピードボールを打ち返して特大ホームランを放ったと知って、偉業を称賛したくなった新聞社の気持ちが理解できました。

そして数年前に勤務のお店が主催した法話会で、その選手の剛速球を法話にされた記憶とリンクし、さらに納得度が高まりました。お話は次のような流れです。

架空の話ですが、大リーガー選手が町の公園に立ち寄ったというのです。そして「誰かキャッチボールしませんか」と公園で遊んでいるひとたちに声をかけます。するとまず小さな子供がかけ寄ってきて「お願いします」と言います。にっこり笑った選手は、やまなりのボールを子供に投げ、子供は喜んで受けます。するとそれを見ていた高学年の生徒が「僕もお願いします」と言ったのでさっきより速いボールを投げて受けさせます。また次に、もしかすると部活で野球経験がありそうな学生が「ぜひ僕も」ということで手を挙げて、選手はそこそこスピードのあるボールを投げます。これも喜んでキャッチします。そうなると人だかりはどんどん増えてくるのです。そこで見るからにスポーツマンと見える若者が「100マイルを投げてくれませんか、受けてみたいのです」と申し出たというのです。

「はたしてその選手は要望に応えたでしょうか?」と、法話は続きます。投げるわけがありませんね。間違いなく大けがをさせることを選手は知っていますから。

法話は「100マイルの剛速球を仏さんのはたらき」に転換して展開していきます。人はみんな悲しみや苦しみを少なからず持っています。そこに仏さんははたらいてくださいます。その悲しみや苦しみが大きくなればなるほど、それに応じられる大きなはたらきが届きます。そしてその大きさは無限大だというわけです。剛速球の100マイルは、理屈の上ではもちろん有限の数値です。しかしこの比喩においては「無限大」ととらえてもなんにもおかしくはありません。

人々の悲しみや苦しみに応える仏さんの無限のはたらきを感じようと思うなら、第三者として傍観するのではなく真摯に想いを巡らせて、自分自身の心を広く大きくしていかないと感じられないのではないでしょうか、というのが法話の終着点です。

お話をしてくださったとっても若い方はわたしが日ごろ触れている浄土真宗ではなく、法相宗は薬師寺の僧侶さんでした。ご縁があって法話のあと一緒にお昼ご飯を頂きながら「剛速球を受ける」の法話がすごく解りやすかった感想をお伝えし、それがうまれた背景を拝聴しました。浄土真宗の開祖親鸞聖人を「つねにご自分の傍に大きな存在を置き続けた方」と聞いたことがあって浄土真宗の他力の味わいとの共通点、また微妙な捉え方の違いなども心の中で感じながらお聞きしていました。

このお昼ご飯の時にわたしが一番「出会えてよかった」と思ったのは、その法話の中味もさることながら、それを組み立てられる薬師寺の僧侶さんの姿勢を知った時です。法相宗が大切になさっているのは、唯識という仏教の根本的概念だそうです。そしてその概念の理解に、薬師寺さんはこれだという定められたものを持たずに僧侶が自ら自問自答して考え続けていると仰ったのです。しかるがゆえに法話についてもこう話しましょうという教科書がいっさい存在せず、すべてご自身が組み立てられるというのです。また大きな命題、たとえば「人は仏になれるのか(だったと記憶しています)」とい問いを僧侶の試験で与えられたとしても、成績を評価する師範の先生たちも「人によって結論は違う」のだと聞きました。

それをうかがった時、聞き慣れている浄土真宗と比べてどっちが正しいとか間違っているとかではなく、仏教が留まることなく動いていることに出会ったような全体を感じられたよろこびを味わいました。若い僧侶さんがその広大な世界の真っただ中にいらっしゃって、毎日毎日お勤めされていることに尊敬の念を抱いた次第です。私生活において、また職場を通じたご縁においてこういう機会に恵まれたのは奇跡的だと感謝しました。

二刀流

二刀流と言われる日本人大リーガーのインタビューを聞いていると、こうでなくてはならないとかいう世界ではなく、もっとひろい心を感じます。たしかに、留まることなく動いていることも感じます。だから法話の題材に取り上げられたのかなと思います。