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ホ "スカッと" すること

夕食時のワイドショーやバラエティ番組は家族が観ますが、自分はほとんど頭に入って来ないまま、BGVとして流しながら食事と晩酌を楽しむ毎日です。でもその中でいくつか見入ってしまうのもあって "スカッとジャパン" がその代表です。

ご存じの方が多いでしょうがちょっと説明させて頂くと、自己中心な登場人物が町なかで善良な市民を矢面に立たせて困らせるストーリーが演じられま。観ている視聴者がイライラしたころに救世主があらわれ「ジコチューをギャフン」と言わせる番組です。視聴者の投稿ネタを、テレビ局が編集しているみたいです。小1と小2の孫もほんとに大好きで祖母の膝に乗って延々と観ていることもあります。

どうしてこれが "スカッと" するのか、かなり巧みに計算されているような気がして考えてしまいます。どうも「ジコチューがギャフン」と言うことだけに "スカッと" するのではなさそうです。あらわれる救世主が、もしも裁判官の様に厳格に「ダメッ!」と言うとしたらその裁判官に「あぁ確かにまぁそうだな」くらいにしか思わないでしょう。汚職や収賄容疑で審判を仰いだ政治家が法律上で罰せられても、わたしは全然 "スカッと" しません。「ジコチューはギャフン」としてない様子をよく見かけます。

また熱血漢の親分みたいなタイプの人が怒鳴りつけて場を治めたとしても「ジコチューがギャフン」と言うかもしれませんが、わたしならちょっと可哀そうな気持ちが働いてしまって後味が悪く "スカッと" しないと思います。

自分が "スカッとジャパン" を観て感じるのは、正義や道徳の押しつけをするのでもなく、高圧的に抑え込むのでもなく「ジコチュー」が心の底から恥を知って、二度と善良な市民を困らせることは無いだろうと感じるように巧みに番組が作られているところです。

そんなことを考えていた今日、まさに偶然ですが「人に嫌われる人の共通点」について、心理学や精神分析学の権威が「そういう人は、心の底で自信がないのに自信のあるふりをする」と書かれたコラムを読んでいて「そういうことかぁ」と感心しました。

"スカッとジャパン" に登場する「ジコチュー」は、まさにそんな人物であることが多く、救世主が指摘をするのは「自信がない」ことを気付かせるケースだと思います。そこに視聴者は "スカッと" するんだろうと思います。さらに言えば「自分の中に潜むそのジコチューの部分と、自信が無い部分」を無意識のうちに制御してもらって「オレも注意しよう」と、人にばれずにコッソリ修正できることも "スカッと" の中に含まれるのではないかと思うのです。

いつになっても収まることの無い政治家の汚職や収賄は、法治国家である以上はまずは裁判で裁くのが大前提でしょうが、やたらと国会で「ダメだダメだ」と連呼したり、ワイドショーで口を尖らせて正論を述べたりするより "スカッとジャパン" のネタにし、視聴者に見せている姿を被告にお見せしたほうがいいのではないかと思ったりします。コロナ禍の高級クラブ通いなどは、法律は届かなくてもこんな感じで鏡に照らすことは出来るのではないかと思います。

先月この note に、人に迷惑をかけるなと教えるのが道徳で人に迷惑をかけてると教えるのが宗教という話を書きましたが、これも似ているように思うのです。宗教は、わが身を照らす鏡だと教わりました。