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35 望む・願う・祈る

この言葉たちを考える機会を、数多く触れる宗派の法話から与えられました。一方で、好奇心からいろいろな宗派の講演会などを聞きに行くと、当然に別の発見がありました。また職場で担当したお葬式の立ち会いでも、実体験が得られました。それを経た現在、自分が受け止めていることをここに書きながら頭を整理してみます。辞書で調べると正解が載っているでしょうが、あてにしないで書きます。

参考までに、見出し写真は千葉県の国立歴史博物館を見学した際のものです。生活の中にある祈りを教えてくれる展示を興味深く味わいました。

さっき孫娘が「お爺ちゃんと一輪車を買いに行きたい」と言ってました。「望み」でしょう。「望む」は「そうなったらいいな」くらいのゆるやかなレベル。対象は一輪車で、言葉の相手はお爺ちゃんに向けられていそうです。
ほんの一例ですが、お嬢ちゃんの名前に「のぞみちゃん」と付けられているとすると「希望を持って生きて欲しい」という親の「願い」だと思います。対象はお嬢ちゃんのミライで、言葉の相手も彼女に向けられているか、人によっては大自然のいとなみとか神仏のほうにも向いているかもしれません。
例が悪くて申し訳ないですが、もし万が一お嬢ちゃんが重い病気や何らかの危険にさらされているなら、多くの親御さんは悩み苦しみ「祈り」を捧げられると思います。対象はお嬢ちゃんのイノチで、言葉の相手は大自然のいとなみとか神仏のほうにも向いているはずです。お医者さんや警察などに「願い」は持たれても「祈り」は捧げられないと思います。

以上、典型的な3つのパターンに整理しました。もちろんその中間に存在する観念もあります。伝染病の拡大のさなかに出される言葉に「一日も早く日常が戻ることを祈ります」という場合、発する方の置かれる立場で受け取る側の感じ方も全然違います。背景にある悩みと苦しみが極限にあられる場合は、当然に純粋に捧げられる祈りでありましょうし、ご本人の悩みと苦しみが重くない場合は「望みます」や「願います」と置き換えてもよさそうに思います。

適切かどうかを評価することには差し障りがあるかもしれないですが、「祈り」を使う場合はちょっと一呼吸おいてからにしたいとわたしは思っています。

わたしが多く触れる宗派の法話では「恋愛」「受験」「家内安全」のような、初もうででも寺社観光で行われる「祈り」などは「欲」じゃないかということで、避けるべき行為として語られます。そこはわたしの評価はノーコメントです。家族が「恋愛」「受験」「家内安全」で寺社に参拝をするなら、目を細めて見ていたいですし「安産祈願」や「七五三参り」なら同席します。ただ自分自身が「祈り」という言葉を使う場合は、自分自身の思いの純粋さを一呼吸おいて確かめる必要があるので慎重に考えるようにしています。しかも自分の祈りを捧げたかどうかによって出る結果との因果関係は、ゼロであると確信しています。にもかかわらず家族の行為に同席したいのは、彼らが相手を思う行為や心を目を細めて見ていたいからです。

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前に「祈り」をテーマにした物語を組み立てようとされる作家の先生に、わたしのお葬式の立ち会いやお葬式後のお仏壇納品の実体験を情報提供したことがあります。結果として先生は「余命を宣告されたご主人の奥様はお部屋のお仏壇にご主人の一日でも長い生存を祈り、残念ながらお亡くなりになった後においては、お仏壇の中のご主人のお位牌をみつめながらお孫さんのこれからのしあわせを祈られている」という物語にしてくださいました。この奥様が悩みと苦しみから捧げられる祈りと、孫の幸せを思い捧げられる祈りの純粋さは、わたしが触れたお客様から受け取ったものと寸分もたがわぬ内容です。

おそらく仏教に親しんでおられなくても理解できることがらではないでしょうか。お釈迦さまが「人は亡くなったらほとけになる」という教えを開かれた素に、おそらくこのような事実を当時の人々の暮らしの中に発見されたからだと思っています。

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