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ロ 棒さまがつないでくれた絆

坊さまではなく、棒さまのことを書きます。半世紀さかのぼります。

棒さまを思い出したのは、今朝読んだお寺の新聞に「叱ると怒るの違い」が載っていたからです。すぐに気付れたと思いますが、教育のことです。寄稿されているお坊さまが、初めて我が子を育て始めたころによく怒ってしまったことや、手をあげてしまったことを振り返っておられました。教育に携わる人や企業でマネジメントに携わる人なら目新しい視点ではありませんが、お坊さまが反省されてお寺関係の新聞に載っているところが面白いです。

親でも教師でも会社の上司でも、ほんとうは覚ったはずの坊さまさえ怒ります。それはあたりまえです。人はそういう動物。道徳に照らし合わせているつもりでつい自分に照らし合わせてしまって、子どもや教え子が自分と違ってると思ったら頭に血が上ります。だからものさしをきちんと持ちましょう、仏さまのものさしに照らしましょう。・・ん?いやいや、仏さまはものさしなんて持っておられないですよ。無限大の心で見てくださってますよ。そこに気付きましょう、といのがお釈迦さまの教えです。

前置きが長くなりましたが、半世紀前の棒さまがつないでくれた絆というのは小学校の担任の先生の思い出なんです。児童からも父兄からもほんとうに信頼された先生でした。その先生の代名詞のような道具は、いわゆる指し棒です。黒板に書いたものを指して教えるあの棒です。いま検索してみると伸縮自在の昔のラジオのアンテナのようなものがほとんどですが、半世紀前は樹脂の棒でした。握るところは太くて堅い素材で、先っぽはしなやかにたわむ細さの品でした。

ボクたち児童がなにかをしでかすと、先生のお仕置きは「棒さま」で頭をコツンでした。これは体罰ではありません。ゲンコツでもビンタでもありません。叱られたとは思っても、怒られたような感覚は一つもありません。ただ、しでかしたことが重い時だけ「棒さま」の握る部分でゴツンとやられたので叱られ方の強さの違いはわかりました。でも性格がどうだとか、勉強ができるかどうかとか体育がうまいかどうかとか、ボクら自身の持っている何らかの差はまったく関係なくやらかした行為にのみ与えられるペナルティなので、みんなが公平にコツンとゴツンを受けていました。

そしていちばん大切だったことはこの罰則ペナルティの件が象徴するように、その先生は、性格や成績、家庭環境などすべての面において、児童が持っている何らかの差はまったく関係なく、大きな大きなものさしを持ってふところに抱きかかえて教育してくださる方でした。

小学校から中高、大学に進むにつれてものさしで区分されて教育されるのが、効率的にも制度的にも当然になっています。でも小学校はみんなまぜこぜです。そのまぜこぜの時にボクらの先生のような指導をしてくださると、大学を卒業して社会に出たあとが違うのではないかと思います。社会には区別が多すぎますから・・。

「棒さまがつないでくれた絆」のおかげで、半世紀経った今も集まる小学校の同窓会が「なんと自由で愉快なことか」と心の奥から実感できます。鼻たれ小僧時代の思い出に「区別」はひとつも感じません。もちろん高校や大学の同窓生にもかけがえのない親友も居るし楽しい話題が飛び交います。ただどこかで名刺交換をしながら経験を語りつつ「区分」の文化で生きていることを感じ取るのはボクだけでしょうか?