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40 道徳と宗教

前回の倫理と道徳の続きです。

子どもの頃(60年代)の学校のカリキュラムに「道徳」があり「宗教」はありませんでした。道徳は人に褒められるイイ子になるためで、宗教は戦争に戻る空気をつくる人為的な異物のように捕えていました。表現の差はあれ、我々以降の世代はそういう感じだと思います。

そんな世代にとって、この見出し写真の言葉はどう届くのでしょう。180度逆のメッセージの様に感じるかたがいらっしゃると思います。

宇宙の真理を深く考察し人間の心の奥を見抜いたゴーダマシッタールタという宗教者が、「殺してはならぬ殺さしめてはならぬ」と説きその教えが2千5百年も育まれたにもかかわらず、宗教をもって戦争に走った自国の歴史や今も報じられる世界各地の対立のニュースを思うと「どないなってんねん」とわけがわからなくなり、「ほんならそーっと知らんふりしとこか」と思う人が大半であることは不思議ではありません。

だから前回の「倫理と道徳」と同じで、一旦言葉を横において考えるほうがいいと思います。

人に「~してはいけない」と方向づけを与えようとすると、ついに他を受容しづらくなって、いつかは争う力に発展してしまう可能性があるということでしょう。道徳という言葉の使い方の範囲の違いもあると思いますが、この見出し写真では「~してはいけない」という言葉の危うさを伝えようとしていると読み取れます。

うちの孫たちも公立の小学校なので「宗教」は習わず「道徳」の教科書は使っているようです。そして確かに孫の親である私の子どもも、孫の祖父である私自身も、行儀や思いやりを求める中で自分の考えで「道徳的に」方向づけを与えようとしています。しかし強制的に方向づけすることは、真理に沿わない人為的な方向付けもあることを知っておくべきなんでしょう。

その「人為的ではない真理」を見出し写真の言葉では「宗教」と呼んでいるわけです。ということはかつては私も思い込んでいた宗教は「人為的」だったので、真逆の定義だったと省みている次第です。

次の図は仏教伝道協会というところが開催したBDKシンポジウムという催しで、4つの宗教から登壇された方々がパネルディスカッションをされた時に、スクリーンに映し出されたものを思い出したものです。今回は解説しませんが「どこも向かう先は透明な普遍的な宗教の世界だが、それぞれが我が教団独自の原理主義に沿って活動をする限り、ドロドロとした思惑が混じりやすい」ことが一目でわかる「宗教に対する偏った解釈を解きほぐす」図として、好意的に受け取りました。4人の宗教家の方々が「本番前の控室で、一気に意気投合した」と仰っていたのが快かったことを憶えています。

4つの宗教