サ 標本としてシャーレーの上に、自分を乗せる
昨春始まった感染病の拡大を怖れる一年、門徒どうしの触れ合いの場が減ったことはたしかに物足りないです。でも逆に YouTube のおかげで「お坊さんのお話し」を聞く機会が多くなりました。とりわけ多数アップされている中から、自由に選択できる楽しみが飛躍的に増えたことは有難いです。仏さん側からいただく願いを、自力で選ぶのは異安心だと教義的に言われるかもしれないけど・・。
「お坊さんのお話し」を聞くのか「仏さんの願い」を行くのかと考えてみると、「仏さんの願いをされているお坊さんのお話し」を聞くのですから、門徒には「そのお坊さんが仏さんの願いに出会われてると判るお話し」を選ぶ自由はあります。
おなじ理屈でわたしたちの門徒活動は「お坊さんのお話し」だけではなく、「ご門徒さんどうしの触れ合い」から「仏さんのお話し」を感じることはできます。「そのご門徒さんが仏さんに出会われてるとわかる」から触れ合いの場がよろこびになるのです。それを朋友と呼びます。この現代社会には「楽しさはあってもよろこびは少ない」というフレースを研修で聞きました。「お坊さん」も「朋友」も、いつかまた会えると感じられることが、よろこびだということでしょう。
今は評論家で、かつて知事をしていた人が「学者の評論なんか聞かなくていい」でも「作家の意見には耳を傾けていい」とテレビで発言するのを聞いたことがあります。人を見下ろすような話しぶりに不快感は感じたのですが、どこか無視できない発言でもあったことを忘れていません。「学者さんは人間の営みを観察している」が「作家さんは人間の営みに出会われている」と言いたいんだろうと思います。他人を標本にして研究するのか、自らを標本としてシャーレーの上に乗せて語るのかの違いでしょう。
シャーレーの上に乗られていること、仏さんの願いに出会われてるとはっきり判るお坊さんが「わたしは僧侶という生きものです」と仰っていました。すごいです。「割の合わんことばっかりやってますねん」とも仰っていました。毎月の情報誌を拝見していると、スケジュールがびっしり。そのほとんどが門の外に向けて開かれています。ですからよく YouTube で聞かせていただいています。