D お葬式を想う
かつての職場の仲間に、ある40歳くらいの女性が居ました。わたしたちは葬儀社さんとは別の立場でご相談を受けたお客様ご家族のお葬式に立ち会わさせてもらっていたのですが、何度かふたりペアで担当したことがあって、その時の彼女の振る舞いから教えられたわすれられない思い出があります。
不謹慎な言葉遣いであることを承知の上で申させていただくと、わたしはお葬式のクライマックスは式場から火葬場に移動する前にお棺にお花を入れて「最後のお別れ」と葬儀社さんが称される「お花を入れる場面」だと実感していました。ほぼすべてのご遺族が目に涙を浮かべられ、大切な方に声をかけられ、中には泣き崩れられる姿を何度も何度も目にしました。
葬儀社さんのご担当者もそこを感じておられて、お客様にとって大切な場面には十分な時間を設けておられていました。わたしたちにとってはご相談者が忘れられない時間になられることを、傍でじっと見つめているだけの時間でした。ただわたしのペアの彼女はかならず「目を真っ赤にして泣く」のです。我々はお葬式の研修をしてたころに講師から「現場で泣くのはプロではない」みたいな指導を受けていました。でも彼女は毎回毎回泣くのです。そうすると、こちらも必ず鼻の奥がツーンとして目が潤んでくるのです。
わたしは自分に対して「なんでよく知らないご家族のお葬式で悲しくも無いはずなのに、泣かなければいけないんだろう」「事前相談で関わっただけなのに知ったかぶりして、ウソ泣きしてるのではないか」というような自分に対する欺瞞・不信感が湧いてきました。それを何回も何か月も繰り返すので、これはいったいどういうことなんだと考えてしまいました。
それである時やっと気付いたのです。教わったことではなく現実として感じたのです。「悲しくて泣いているのではない」「誰かが誰かを想う強い気持ちに触れて、感動しているのだ」ということを・・。ならばそれを講師が「現場で泣くのはプロではない」というほうがおかしいと思うように変わりました。ひとが感動するのを制御することの愚かさは許せないとさえ思うように変わりました。そしてお葬式に「誰かが誰かを想う強い気持ちが無くなってしまったらおしまい」じゃないかと思うに至りました。
その後、わたしは講師には頼らず自分自身のお葬式相談のやりかたを作り変えていきました。まず「お葬式は誰のため、何のため」からスタートしよう。そしてその第一のポイントは「誰かと誰かの関係を温めること」「できればそこに『有難う』という感謝の言葉が飛び交うこと」と決めました。以前、五木寛之さんの「人間の関係」を note に書きましたがその本がお葬式相談の参考になりました。
この話には、続きがあるのでまた触れていきます。