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ヘ イノセントと修羅場、清規と陋規

若い頃から、自分はネガティブでもありズルい部分もたくさん抱えているくせに俗に言う「きれいごと」が好きな人間だと自覚しています。晩年には浄土真宗なんていう格別な宗教を身近にしたので、言葉を選ばずに言えば「きれいごと」との付き合い方がさらに長けてきたと感じています。

別の言葉でいえば「イノセント」です。こういう考え方の人間は「修羅場」を多く経験された方々からいうと、青臭く、打たれ弱く、面白くないわけです。というか、だからこそ浄土真宗は「人間はそもそもネガティブで、ズルい部分もたくさん抱えている」ことを自覚しながら、如来の本願によって救われていくという真実、如来の本願によってこそ開かれていく自己肯定感に目覚めましょうというわけです。そういう境地に立てば「イノセント」が「修羅場を経験された方」よりも弱者になることなどありえないのです。

「修羅場を経験された方」が「イノセント」を面白くないと思われ「自分のほうが人間が見えている」という気持ちを強く持たれるのはわたしにもわかりますが、実はそうでもないなと「イノセント」側からも見ています。おとぎばなしやディズニー映画みたいな勧善懲悪の物語然り。また荒っぽい生き方をされた方が、純粋に法を説かれるお坊さんの前で改心された物語も聞くことがあります。また「イノセント」を説きながら、自ら「修羅場を経験されたお坊さん」もたくさんいらっしゃいますがこれは当然のことです。積まれた修行の熱量や、深く人間を見つめられた総量が大きいからです。

ただここでわりと厄介なのは、社会においては「修羅場を経験してるぞ」と自ら言い切るほうが強い立場に立つケースが多いことです。こういった圧力のかかる場に直面すると「きれいごと」が好きとみられる人間は、やはり現実的に何も言えないのが一般的です。

せいきとろうき

でも今日の夕刊で昨今の政府のありようを「清規(せいき)と陋規(ろうき)」という聞いたことも無かった難しい単語で評論しているのを読みました。清規というのは英知に裏付けされたひろく正しい規則で、陋規は自分たちの中だけで通じる狭い範囲の裏の規則だそうです。評論によると昨今の政府は陋規で清規を押さえている、すなわち裏の規則で表の正しい規則を上書きしているようだというのです。

この評論によってさらに考え方が整理できてスッキリしました。「修羅場を経験された方」よりも自分が弱者と下を向く必要はまったく無いと確信できたからです。そうですね、裏は裏でしかないですね。

前述したおとぎばなしやディズニー映画みたいな勧善懲悪の物語。また荒っぽい生き方をされた方がお坊さんの前で改心された物語を、これからも好んで見たり読んだりしたいと思います。