見出し画像

ク コンバージョン、ん?

所属するお寺の住職が法話会で「今日の土産話として、チェンジではなくコンバージョンということを持ち帰ってもらえたらいいと思います」とおっしゃいました。「チェンジは変化で、コンバージョンは転換」とか。「ん?」と、目が点になるような感覚を味わいました。浄土真宗の現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)という教えを解説されていた時だと思いますが、わけの分かったような分からないようなモヤモヤとした感じがしました。

現生正定聚という教えは「この世で信心が定まるとき、往生浄土が定まる」と教わります。私が習ったのは、次のような説明です。仏教の目的はほとけさんになること(成仏すること)、すなわちこだわりや迷いによってもたらされる苦悩から解放されること。浄土真宗の理解では「生きているうちはこだわりや迷いは振り払うことは出来ない」しかし「まさに生きている今この瞬間に、ほとけさんに成らせてあげようと言われる阿弥陀如来の言葉にそのまま心を任せれば、たとえ地獄行きのようなこの愚かなわたしの身でも、息を引き取った瞬間にはほとけさんに成ることが約束される」と説くのです。

いずれにしても少しわかりにくい、もしくは本当なんだろうかとちょっと疑いたくなるような約束みたいな気もします。でも多少にかかわらずわかっているとすれば、飽きることなく法話を聞きながら疑っている自分を見つめ続けるのが、浄土真宗の醍醐味でありよろこびだと思います。

そんな自分ですからその日の住職の法話のあとは、コンバージョンコンバージョン、転換転換と、その言葉が耳に焼き付いて離れなくなりました。

なのでここで「もしかしたら転換ってこんなことかも?」という思い付きを並べてみます。

▶ ちょっと自分のことがわかった気になった時こそ見えない力の前に自分を置くと、わかってないことがハッキリする場合がある。
▶ 自分の成功体験を思い出すより恥ずかしい負の体験を思い出すほうが、生き方としてわかることに近づいていく。これは、職務や技量の話とは領域が違う。
▶ 他者を見る時は職務や技量の領域とは別に、彼や彼女が生き方の上で足場にしている部分を見つめ続ける。それが自分をわかることにも近づく縁につながる。
▶ うれしい時によろこぶのはもちろんだが、悲しい時は悲しみ、辛い時は辛さを噛み締める。それで自分に近づいていく。

見出し写真にあげたのは、いつか聞いた法話会でハッと気づいて写メを撮ったものです。現実の自分を何とか理想の自分に仕立て上げることから転じて、理想の世界から現実の自分をそのまま捉えていく構造です。うまく表現しきれませんが、転換って本質に帰るための実は自由な営みかもしれません。

これからの生活の中でも、もっともっと事例に出会って考えていくべきと思います。

仏教がは現実とは違う見えない世界と遠ざけるのではなく、逆に現実の見えにくい世界や見たくない世界をあきらかにする本当の世界だと知る。そこでは自分の心のほうを転換すべきことであり、あきらかにしつくそうと考えたならば、そこにほとけさんみたく凄いものを持ってきて照らすしかないのかと思います。

だからまったく科学と矛盾したり相容れないことではなく、むしろきちんと心の科学だと言っても良いと思うわけです。