C お墓を想う
昨日、亡父の祥月命日でお寺に孫も含めた家族5人でお参りしてきました。うちのお墓は郷里の北大阪から、現在の東京の所属寺に引越したものです。墓碑にはわたしの家系の先祖代々という文字と、祖父母、父、叔母の法名(浄土真宗)。それに妻の両親の真言宗の戒名が刻まれ、それぞれお骨が収められています。参る主体である我々家族が思い出せるお骨は幅広く受け入れる方針です。
室内の墓苑(納骨堂)のお仕事をさせてもらっていたことがあり、お客様や僧侶の方のお話を聞く機会にも恵まれていたので、お墓とはいったい誰のためのもので何のためのものかを考える機会がたくさんありました。お墓を持ちたくなる契機、宗教的感性の濃淡、ご先祖や家族との関係、自分がいつか入ることへの想像力、その価値と支払う対価の重みなどお墓の要素はいくつかあって、出来るだけ広く振れ幅を知りつつ、お客様への提案もさることながら我が家にとってのお墓もしっかり考えたいと思っていました。
現代のお客様の重視される要素と僧侶の方が説いてくださることに乖離があるのはしかたがないことで、販売に従事する企業は上手にそこを慮りながら説明していくのが責務だと思います。見出しにあげたチャートは、我流ではありますが思うところを整理したものです。
現代の流行は「子孫に迷惑をかけたくない」「自分のことは自分で決めたい」ということで、極端に言えば海洋散骨のような選択肢まであります。実際にわたしもお客様や友人のご家族の海洋散骨の取次ぎもしました。海洋散骨の施行業者さんもほんとうに心ある会社は、お客様が悔いなくなさるお手伝いのプロとしてお仕事をされていることを存じ上げています。
おひとりおひとりのお考えの是非を問うことはしたくありませんが、ただどんな選択肢があるかをモノやカタチではなく、その意味から分類することが先決ではないかという考えに立っています。お墓もお葬式もお仏壇も「誰のため・何のため」がはっきりすることなく、流行に流されることはよしたほうがいいなと思います。
上に「出来るだけ広い振れ幅」という表現をさせていただいたのは、サラリーマン時代は、とかく終活という二文字の付いた書籍やサイトを執筆なさる方は思考の振れ幅に限界があると感じていました。サラリーマン時代は過去のことになって、お客様のことをもう案じる身の上ではないのですが、自分の子孫やお寺の仲間とは、終活ではなく宗活という点でお墓もお葬式もお仏壇もいまいちど一緒に考えたいと思うところであります。