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リ 野球チームは誰のものか

プロ野球のキャンプ・オープン戦も終盤にさしかかり、期待と不安が交錯するこのごろです。そこで「プロ野球チームは誰のものか」という題で書き始めようとしたと同時に、センバツ高校野球大会の放送が始まりました。東日本大震災10年目の今回の開会式で、選手宣誓が東北は仙台育英高校のキャプテンが務められたこと。まちがいなく全国が後押しした見事なクジ運で、それに応える立派な言葉を綴られました。お題を、野球チームは誰のものかに変えます。

高校に限らず学校の部活動は部員たちのものと考えてまずはよさそうです。典型的に言うと幼稚園児のチームは園児のものだと思います。また部員たちのものという捉え方が、そのチームの背景によってOB部員も含めてのものや学校全体のものに拡大している実態があります。さらに今日の高校野球のように地域を代表するチームが競い合う大会になると、地域のものとして捉えられるでしょう。

そのうえで今朝の選手宣誓を聞いていると仙台育英高校ファンが増えるだろうと感じると共に、高校野球ファンそのものがこのご時世において復活するような清々しさを感じます。いわば国民のものに昇華していることに気付かされるわけですが、これはそこに携わる人の気持ちが姿勢となって表れる「決まり事ではなく文化」だと思います。

ここで寄り道して、時折り議論になる「会社は誰のものか」という話に触れます。株主のもの論者、お客様のもの論者、従業員のもの論者が居られます。言葉の定義そのものをひろくとらえて、ステークホルダーのものであると聞いたこともあります。経営の教科書にはいろいろな言葉が載ってるに違いないと思いますが、結局は「決まり事ではなくその企業が個別に持つ文化」なんでしょう。その時の経営陣が定義をして範を示し、各部署、各従業員が行動していく中で創られたり壊されたりする文化ではないでしょうか。私の個人的な思い出では、たまたま所属した当時の企業の経営陣はステークホルダー論を標榜しつつ、根底に流れる文化は従業員のものであったような気がしております。それが企業全体が醸し出す好奇心の源になり、他と比較するのではなくオンリーワン路線を歩んでいたと記憶しています。従業員が満足できる日々も多かったと振り返ります。

そこで「プロ野球チームは誰のものか」という話をすると、学校の部活動のありようと企業のありようをかけあわせて見ていくことになりましょう。12球団がそれぞれに異なる文化を持って歩んでいることが見えます。ある球団は広くステークホルダーのものという考え方で大きな視野でおそらく複合的な指数を用いて経営しながら、従業員であり商品でもある選手がことのほか活性化していて強いチームになってきている。ある球団はそこまではいかないが、まず株主のものとしてとにかく勝つことによってお客様を増やすことに専念し、興行成績を上げ続ける。しかし時には一部の選手は商品のように流通されていく。かと思えばまたある球団はチームは従業員のものという考えが強いようで、選手がみんなとても仲良しでマネージャーも家族の様に接している。私見ながらテレビのインタビューで監督が選手をニックネームでばかり呼ぶのは、お客様本位ではなく選手本位と感じます。すべて決まり事ではなく文化だと思います。良いか悪いかではなく好きか嫌いかみたいなことでしょう。

ですから自分がどこのチームのファンになるかは、その文化の好き嫌いなんだと思います。過去の歴史の中で飛躍的にファンを増やしたチームもいくつもあります。ということは、他のチームのファンに移行したひともかなり居るということです。広い範囲のことをこんな私的なところで書いても仕方が無いのでまぁどうでもいいのですが、他のチームのファンに移行したくてもできないファンがこのところ悶々としていることを書いておきます。

蛇足ながらこれまでに何度も触れましたが、お寺は誰のものだ論。これに関しては多くの方々は門信徒のものであると仰っておられます。門信徒は株主でもあり、お客でもあります。わたしも個人的に満足できています。そして飛躍的にファンを増やした野球チームのように、自分の所属する宗派やお寺になっていけばいいなぁと考えたり、考えてこんなところに書いているだけではしょうがないなぁとも思います。門信徒が従業員になることは無いかもしれませんが住職・寺族の方と一緒に行動できることもあると思うのです。