「売れてから好きじゃなくなった」について(09/28の日記)

前の日記、なるべく「表現のくさみ」みたいなものを排して淡々と書いたんだけど、後で自分で読み返したら全然おもしろくなくて途中でやめちゃった。
職場の文章のおもんない、情報だけ伝えるコラムの書き方が出ちまってたかも。ごめんね。ごめんね????やっぱ「表現のくさみ」大事だわ。文学的メスガキ。

ネトフリで星野源とオードリー若林の『LIGHT HOUSE』を観てる。出てきた言葉から考えたことを、長めのツイート程度に書いておく。

・「売れたら好きじゃなくなった」

アーティストのことを「売れたら好きじゃなくなった」って人がいた話。女性のワーキャーファンがつくようになって、俺だけがほんとうの良さをわかっていたのにどうでもよくなった。みたいな。

よくあると思う。俺も昔よくあった。

それに対して星野さんが言ってたのは、それは「そのアーティストが好き」なんじゃなくて「そのアーティストが好きな自分が好き」だっただけ。そこには自己愛しかない。みたいな批判。

おおむね「そうだね〜」と思って番組を観てたんだけど、これだけは、そいつァちょっと違うんじゃないすかねェ⁉️って気持ちになった。

少し前に似た意見のツイートを見たけど、俺は、「そのアーティストが好きな自分が好き」でいいと思う。ていうかグッと留まって考え続けていくと、「そのアーティストが好き」と「そのアーティストが好きな自分が好き」はかなり、ほとんど、不可分なものなんだ。

でもじゃあ、「売れたら好きじゃなくなる」のはどうしてなんだろうね。

いくつかパターンが考えられる。

一つは「すっぱい葡萄」なんじゃないかと思う。この前友達に聞いて気に入った言葉だ。🍇。

つまるところ、自分だけが知っていると思っていたアーティストがみんなの知るところとなった時、それは、寂しいことなんじゃないか。
でもその寂しさに気づいて、傷つきたくないから、「最初から好きではなかった」ということにして、合理化して、傷を傷ではないことにしようとしているのではないか。
つまるところ、一種の自衛なんじゃないかというのがひとつめのパターンだ。

二つは、自分の感性は変わっていくし、売れることがきっかけだったかはわからないけど、アーティスト側も変わっていく。単純に「自分の好み」と「好きだったアーティストの有り様」がズレたから、「好きじゃなくなった」んじゃないかという説。

実際に僕は昔Mrs. GREEN APPLEが好きだったけど、売れてから好きじゃなくなった。KEYTALKとかもそうか。売れたから変わったのか、変わったから売れたのかわからないけど、5〜10年前と今では彼らの音楽性って実際まったく違う。

でもそれは、「好きだった感じじゃなくなったから好きじゃなくなった」っていうのは、自然なことだし、別に悪くないんじゃないか。と思う。浅いか?どうだろう。逆に例えば、星野源さんで言うと俺は売れてからの曲のほうがめっちゃ好きだったりする。

アーティスト的にも聴いてくれる層の見え方が変わってきて、自分の進みたい方向があって、その絡み合いの結果として置いてかれる人たちが出てくるっていうのは、けっこう避け難い摂理なんじゃないかと思う。

でもどうだろう、やっぱ寂しいのかな。アーティスト側からすると。一貫して愛してくれないんだったらお前は最初からファンじゃない!というのはこれもまた、アーティスト側の自衛の理屈だったりするのかな。

でも、言葉が重なるけど、それこそ寂しいことじゃないか。「売れたから好きじゃなくなった」人の愛の歴史を、始まりから否定してしまうのは。

もっとフランクに、どうだろう、キャッチーでわかりやすいから「売れてから」というのが節目になってしまっているだけで。時期Aの曲を好いてくれた人がいた、時期Bに入ってもっと多くの人が聴いてくれるようになったけど、その陰で離れていった人もいたという、たとえば友だち同士が疎遠になってしまうような、合縁奇縁ってことに、してもらえないだろうか。

売れてから好きじゃなくなることを繰り返していたオタク気取りの僕より。

今日はここまで。

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