目の前にいるのに、ってとき。
気づくと、目の前に彼がいて、まっすぐにでも何やら気まずそうな少し切羽詰まったような顔でこっちをみていた。
怖くて、一瞬目を逸らした。
話したい、より完全に終わってしまうことの方が怖かったから。
脇を通り過ぎようにも、真正面に彼は立っていて周囲は混んでいてすり抜けられそうもなく、出口はあっちしかない。
なんで、こっちを見ているんだろう、ということが頭をよぎった。
さっきまで気づいてもいなそうだったのに。
「バターさん」と話しかけられては、もう逃げることはできなかった。
普通にしゃべろうとしたけど、言葉に詰まる。目を合わせることも難しい。
それはなぜか彼も同じようで、「といっても話すことはないんだけど」みたいなことを言った。
目の前の彼は苦笑しながら、やはり気まずそうだ。
彼の声がぼんやりと遠くて、何をいっているのかあまりよく聞こえない。
ようやく捉えた言葉もなぜか次々と泡のように消えていく。
…なにそれ。じゃあ、なんで呼び止めたの。
と彼の言葉に半ば呆れ、でもその考えもまた頭の隅の方にぼんやりと薄れていく。
保っていられないのだ。
ふわふわする。
さっきまで、もう終わりだと納得しかけていた。
今日こそ本当に終われるはずだ。
まだ、知りたかったことや腑に落ちないことが残っているけれど。
でも、わたしは自分を傷つけるようなことはもうしないし、彼じゃないならちゃんと自分をしあわせにするための何かや誰かは目の前に現れてくるから、と何度も何度も自分に言い聞かせていた。
必要のないものなら、ちゃんと手放せる。
だったら、今日は話せないまま終わって、たぶん明日から別の何かが新しく始まる。
だいじょうぶ。
それなのに、今。
なぜか話しかけてきた彼は、わたしの隣を歩いている。
部署のひととさっきまでいたのに。
わたしは、だいじょうぶだよとふと伝えたくなった。
あなたがいなくても、ではなくて、もう傷は治ったから、という意味で。
でもそういう言い方はできないから、ふたりの間にあったことと離れることになったときのことについて、もう問題は解決したからだいじょうぶだと伝えた。
彼は少し痛いような表情をしていた。
あなたは気にしていないかもしれないと思ったから、あえてそのことに今まで触れてこなかったけど。
でもたまたま会ったから。
何にも思っていないかもしれなかったら、こっちからわざわざ言うのも変だと思って。
そんな風につっかえつっかえ言い訳した。
同じことを何回も何回も繰り返し話しているわたしは明らかに様子がおかしく、けれど彼もなんか動揺していておかしいから何も気づいていないみたいで、「よかった」「気にしてないということはなかった」と何回も繰り返す。
ほんの3分にも満たない時間がものすごく長くて、どうしようと思った。
そして、すごく唐突に「トイレにいきたくて」といなくなった。
なんだったんだ、今のは。
彼とわかれて少し歩いたら、すごく泣きたくなってしまって、場所を探したけどないので、バイクに乗ることにした。
あーあ。
もう、わたしの世界から彼はいなくなるはずだったのに。
わたしが何度あきらめても、わたしの中にいる誰かは謎の確信を持って、彼一択を貫いている。
わたしは、そんな彼女に振り回されている。
けれどまぁ、いいや。
と思った。
わたしはわたしの全部を受け容れると決めた。
そして、もうそこまで怖くはなかった。
彼がわたしの人生にいようといまいと、わたしはそれに左右されずに生きていけそうだと思った。
前は、彼がこれ以上自分の中にいたら生きていけないと思ったのだ。
そして、わたしは悲しかったんだなと思った。
途中から、彼はわたし自身を見てくれなくなった。
部下や母であるわたしとか、彼とわたしの周りにある会社の環境だとか間に横たわる人間関係だとか、そういうことを抜きにわたしを見られなくなったみたいだった。
わたしが何を言おうと、言葉は彼をすり抜けていった。
それが、わたしにはどうしようもなくいやだった。
他の誰がそうでもよかったけれど、彼だけにはそうされたくなかった。
好きだとか嫌いだとか、それ以前の問題だった。
目の前にいるのに、彼にはわたしが見えていなかった。
けれど、あの瞬間は彼はわたしを見て、わたしと話していた。
それが嬉しかった。
きっと、今日はいい日だ。
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