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掲示板で出会ったひと はちにんめ⑧

彼という存在は、わたしに感情を呼び起こす。

怒り、という感情をあまり感じなくなって久しい。
というのも、周囲がいいひとだらけになってしまい、あまり怒る必要がないのだ。

そうして気づいた。
今まで感じてきた怒りというのは、そのとき目の前で生まれたものじゃなかったのではないか。
自分の奥の方にしまいこまれたままのかつての怒りが、外に出たいと望んだ瞬間だっただけなのではないか。
怒るために、怒る対象を探す。

リトアニア出身のヤーク・パンクセップ教授が提唱する「7つの感情回路」によると、怒りは人間ではないネズミも感じられる原始的な感情の大元にある回路のひとつでそれは体の反応に直結しているという。
心が感じるより先に、体として反応する。

わたしの怒りの感情というのは、お腹あたりに感じる重い硬直だ。
自分にはどうにもできないと感じる無力感。
蔑ろにされることではなくて、蔑ろにされることに対抗できない自分。
怒りはそういったものとセットになっていて、感じたそばから封じられていく。

それに気づいたのは彼がきっかけだった。
彼といると、忘れていた感情や記憶がふいに蘇ってくる。
優しい気持ちとかじゃない、凶暴な怒りとかこの世の終わりみたいな悲しみとか。
彼の言葉とかがきっかけですらない。

この日は、朝から彼が怖かった。
会っているわけじゃない、ただのチャット。
「おはよ」のひとことからのやりとりがなんとなしに怖くてグラグラする。
なんと返信すればいいのか急にわからなくなる。
右往左往する。

会話に出てきた地名に急に怒りがこみ上げる。
それは、彼が掲示板で一緒にカラオケをする女子を募集していたときに出てきた地名だった。
「それは、仕事じゃないねー」
とつい絡んでしまい、自己嫌悪にかられ、発言を即停止した。

とりあえず、落ち着こう。
なんとなく怒りの空気が自分にまとわりついているような気がした。
そして、わたしは、怒りたいのだと気づいた。
自分の中にある怒りを出したいのだ。

次は、恥ずかしさにとらわれていた。

なんで、わたしまだ生きているんだろうと思った。
彼の前に生きていることが恥ずかしい。
生き恥を晒して、こんなになってもなお、なんで生きているんだと誰かに責め立てられているような気がした。
誰か、とは男性だったから、父親なのかもしれない。
そういえば、わたしに「お前は恥ずかしくないのか」とよく言っていた。

父は、わたしのする事なす事すべてが恥ずかしかったのだ。
大学に受かったわたしがひとを小馬鹿にすること(したつもりはない)、ストレスでプクプク太っていくわたしのこと、そういう至らなさがすべて。
そして、当時父に言い返すことができなかったわたしは、その怒りと無力さを今も内側に抱えている。

彼は父と違う。
わたしのすることにすべて「いいね」という。
適当に言っているのとも違う。
「何か変わった?」と聞いてくれたり、わたしに興味を持ってくれる。
変化を喜んでくれる。

そうしていると、こみ上げる嬉しさと同時に、悲しみが訴えかけてくる。
「どうして」
なんであなたばっかりしあわせなの、とかつてのわたしに責められているような気になる。
「なかった」悲しみが今になって押し寄せてくる。
それはかつてのわたしには感じることすらできなかったものだ。
ないことに気づくのは、「ある」という豊かさを知ったから。
こういうとき、わたしは彼から少し引いてしまう。

今日も、わたしは彼に元気をもらう。
けれど、いつまでもそれに慣れないでいる。
あることが当たり前に思えなくて、また「ない」に戻る恐怖に陥る。

今を生きろ、という彼が眩しくて直視できない。

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