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〈雑種(ハイブリッド)〉であること――中上健次のクレオール性 Ⅱ

1.


(Ⅰで)先述したように、中上は『千年の愉楽』からオバによる語りの文体を作品に使用し始めるが、自身の創作の根幹を成すものとして日本の古典文学が存在していることをエッセイ「身体に刷り込まれた異文化」(1985年)で述べている。エッセイでは、口承で構成されている「日本の古典文学の世界」は「私(中上―引用者)に刷り込まれてある」としているが、言葉通り中上は、中世の説話ものを強く意識した作品を数多く残している。古典文学を含む「日本の固有の物はアジアの物が移入されて生成分化したものである」とし、日本はいにしえの時代より海洋を通じての交流から他国の異文化を取り入れ、それをアレンジして自国の文化として定着させていたことから、言わばモザイク的に日本の文化は成り立っているという論をここでは展開させている。
 口承とモザイク的な文化との関係について、クレオールではシャモワゾー及び彼らの師である詩人のエドゥアール・グリッサンが次のような見解を示している。
 シャモワゾーは『テキサコ』における語りと小説の関係について、2012年の来日講演会(注1)で「かなり早くから問われていた問題です」とし、「我々は、クレオール語とフランス語のあいだで、自分自身のランガージュを作らなければいけなかった」と述べている。そして「フランス語は古典文学や学校で学ぶテキストをもたらした」が、「クレオール語が私にもたらしてくれたのは、書かれたもの」ではなく、「語彙や空想力だけではなく、すべての口承性をもたらしてくれました」としている。
 クレオールの文学も、多くの文学がそうであったように口承から始まる。『クレオールとは何か』の訳者である西谷修による「訳者まえがき」では、次のようにクレオール語とクレオール文学の創始について述べられている。

 それとクレオール語の発生に関しては、「語り部」の役割を無視できない。農園で仲間の奴隸が死んだときなど、夜黒人たちがそれとなく集まると、そこに自然発生的に「語り部」が生まれ、かれが各人の経験や記憶や感情を共通のものとして語りだすようになる。そうしてできたのがクレオールの「コント(民話)」であり、このような「通夜」を通してクレオール語は徐々に豊かになっていったとみなされている。

西谷修「訳者まえがき」『クレオールとは何か』

「語り部」が語る死者の「経験や記憶や感情」とは、まさしく故人の物語である。語られる物語を通じてクレオール語が豊かになるにつれて、コントが自分たちのアイデンティティを示す文学へと昇華をする。だから、語ることがクレオール文学であり、語り部の口述は重要視されるのである。
 語り部の重要性について、グリッサンは次のように述べている。

 ある伝統からやってきて、〈関係〉へ入るもの。ある伝統を擁護しつつ、〈関係〉を認可するもの。あらゆる伝統を離れ、あるいは反抗して、〈関係〉のもう一つの意味=感覚=方向(プラン=サンス)を作りだすもの。〈関係〉に生まれながら、それに矛盾し、抑制するもの。/(中略)/クレオール言語は脆く開示的な〈世界の響き〉だ。それは関係の現実から生まれ、関係に依存することによって、この現実内へと限定されている。/口承言語は、例外なく、〈世界の響き〉となっている。われわれはそのどれか一つがこの運動する循環性から姿を消すたびに、ようやくその欠如を感じはじめる。

〈世界の響き〉は、こうしてわれわれが、諸民族の文化の波瀾にみちた数々の出会いを感じとり、指摘することを許す。それら数々の出会いの全地球的性格が、われわれの〈世界というカオス(カオ=モンド)〉を作り上げる。〈世界の響き〉は、〈世界というカオス〉の構成要素(決定的なものではない)と表現を、同時に描きだす。(注2)

エドゥアール・グリッサン「さまざまな道程 声に出して、隔たりを記すために」

 グリッサンのことばは晦渋であるが、シャモワゾーはグリッサンの述べる口承と〈関係〉、〈世界の響き〉について、前出した講演会の場で説明をしている。シャモワゾーによると、グリッサンはクレオール化について、「黒人対白人、支配者対被支配者の善悪二項対立であった」とする脱植民地化時代の思考を否定し、これからは「それまで遠い存在であった文化や、完全に孤立し絶対であった世界観が互いに出会い、新しい関係に入っていくということ」が重要だと考えたとしている。確かに、差別の「善悪二項対立」は、結局のところ悪循環にしかならず、思考をストップさせてしまう。よって、あらゆる〈関係〉を構築することはできないし、差別の解消には繋がらない。
 そして、グリッサンは〈モノを語る=物語〉における語り部の重要性にも言及をしている。つまり、語られる〈物語〉は何らかの形で聞き手や読み手に〈関係〉を与えるということであるが、ベンヤミンは長篇小説(ロマーン)と物語(エアツエールング)の差異をあげつつ、以下のように「物語」について述べている。

 しかし、長篇小説が際立った対照をなすのは、なかでもとりわけ〈物語ること(das Erzählen)〉に対してである。物語作者は、物語ることを経験から取り出してくる。それは自分自身の経験の場合もあるし、報告された経験の場合もある。そして語ったものを、また、彼の話に耳を傾ける人びとの経験にしていくのだ。(注3)

ヴァルター・ベンヤミン「物語作者――ニコライ・レスコフの作品についての考察」

 加えて、ベンヤミンは同論内で長篇小説は作家が「他から隔絶され」、「孤独のうちにある個人」であるからこそ、生まれるものだとしている。そして「長篇小説を書くとは、人間の生の描写において、他と通約不可能なものを極限にまで押し進めることにほかならない」とまでしていることを鑑みると、近代文学の象徴である長篇小説は、グリッサンが示した、クレオール文学が持つ「関係」や「〈世界の響き〉」といった、横の繋がりを連想させるものとは距離を置いているとすることができる。そして、ベンヤミンは両者の決定的な違いは「長篇小説が本質的に書物というありように依存しているという事情である」としている。ベンヤミンの指摘は、とりもなおさず近代以降の文学における書物、言うなれば書きことばの優位性を示しているであろう。だが、ここでは物語と小説の違いをことさら挙げるつもりはない。『クレオール礼賛』にある「要するに、我々(クレオール文学者―引用者)は我々の口承性の伝統的な形に根をおろしつつ、現代的な書き物のすべての要請に応えられるような一つの文学を作ろうとしているのだ」の一文を添えておく。
『千年の愉楽』の差別の描き方も、グリッサンが目指したクレオール文学と同様に二項対立ではない。「半蔵の鳥」では、「長山」という差別的な意味が込められている「路地」の別名が中本の一統の半蔵に嘲笑と共に投げられ、「天狗の松」では、「半蔵の鳥」のように「ヨツ(四)」という差別語が出てくる。また「六道の辻」では、昔の正月に「路地」の若者が城下町の若者らから壮絶なリンチに遭ったことなど、「路地」の者らがいわれのない差別に遭っていることがオリュウノオバの記憶から語られる。しかし、理不尽な差別を行った者らに対する深い怨讐や憎悪のことばはなく、差別を特定の誰かのせいにするようなこともない。
 そして、オリュウノオバらしい差別そのものへ対する〝報復〟が「天人五衰」には描かれる。「明治初年、太政官の公布により穢多解放令が発せられたその時の事」、「路地」の者らは「われわれは今の業苦から解き放たれる、人の生命に生れて死ぬという宿命があり若さが一時の仮象のように老いがおとずれ体が衰え痛みつづけるように業苦としてあったものが公布を境に消えてなくなる」という期待を持っていた。そして、解放令が出た際に「口にしている当人らの誰も意味を分からずバンバイ、バンバイと両手を上げた」としている。「バンバイ」のことばは、「路地」に暮らす人の多くが文字の読み書きができないため、「万歳」が分からず聞こえた音から「バンバイ」と声をあげたのであったが、「路地の女が「万歳をバンバイと言うたんや」と言うのがことさら耳に残り新時代の到来だと思った」という。だが、解放令を受け入れられない住民たちから、被差別民らが「近隣の百姓に隅の方にひとかたまりになって建ち並んだ小屋同然の家々が襲われ、火をつけられ、備後の方では山に逃げ込んだ者らが竹槍を持った百姓らに猿を獲るように追い立てられ突き刺されて十人ほどが死んだ」というような襲撃に遭ってしまう。
 オリュウノオバはそのような目に遭ってきた「路地」の歴史を知りつつも、次のように考える。

 オリュウノオバはそうやって猿のように獲られて死んだ者が居ても人は増えつづけ町をつくり村をつくりあふれ出てしまうと思い、若い時分から女らが孕む度に、父なし児でも誰に恥じる事も要らぬ、たとえ生れ出て来た者が阿呆でも五体満足でなくとも暗いところに居るより明るいところがよい、あの世よりこの現し世がよい、滅びるより増える方がよいと説いてまわり産せた。(中略)十人猿のように獲られて死んだなら死んだ者の事を考えて悔むだけではなしその十倍の人間を産せ増やしてバンバイと言いつづけて来たと思うのだった。

中上健次『千年の愉楽』

 オリュウノオバは、産まれた赤子を母親よりも先にその手で抱きあげる産婆ならではの差別を見返す手段を考えるのだが、何より重要なのは〈「人間」を産む〉ということである。産まれてきた「路地」の赤子は、決して「猿」なんかではなく紛れもなく「人間」なのであり、どのようなハンディキャップを背負って生を受けても「人間」であることは紛う方なき事実なのである。オリュウノオバが見聞きしてきた、差別をする者が人を人として扱わない光景は、あらゆる差別の根源に潜む〈相手を自分と対等な「人間」として見ていない〉ことの表れである。ルース・ベネディクトは『レイシズム』内で「レイシズムにとって、相手方が敵意を持っているかどうかは関係ないし、相手の教派や話す言語も、あるいは奪い取れるような資産があるかどうかさえも関係がない。出自が違うというだけで、あちら側の世界、すなわち自分たちに敵対する側の存在ということになってしまうのだ」(注4)とレイシズムの構造を指摘しているが、この指摘は人種差別だけに留まらずあらゆる差別の構造、差別行為に共通しており、〈差別をしていい〉という言動の根拠となるような科学的な証明は、一切どこにも存在していないということを示している。
『千年の愉楽』所収の各作品のラストでは、「中本の一統」の若者らの死に様や享年、命日がオリュウノオバから語られる。オバのこの行為が意味することは、彼らがひとりの「人間」として生を全うしたという証明に他ならない。「中本の一統」の若者らは、傍から見ると〝どうしようもない〟、〝救いようがない〟と嘆かれるような人生をおくるのだが、オバは蔑まれても仕方のないような彼らが生きぬいた証しを、その手で取り上げた者として自分の記憶に刻む。だからこそ、彼女は慈母のように若者らの悪行を全て許して受け入れるのである。
 そして悪は、均質的な世界を破壊する役目を担っている。「中本の一統」の青年たちも、現代化が進むことによって均質化する世界に抗う存在としてあるのではなかろうか。シャモワゾーは前出した来日講演会で、グリッサンが提唱した世界のグローバル化への危惧について次のように説明している。

 現在、資本主義が様々な被害を生み出していますが、理解しなければならないのは、世界がグローバル化することによって、画一化を起こしてしまう可能性があるということです。すべての文化には光があり、影や野蛮なところもあります。そうしたことすべてが関係を持っていますが、西洋支配が激しくなることによって、我々は、着想や提案の多様性という、人類の豊かさを作るものを失ってしまう。彼(グリッサン―引用者)が重視したのは、多様性を擁護することでした。(注5)

パトリック・シャモワゾー講演会「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」

 近年は文化だけではなく、人間自体も本来持っている「影」や「野蛮」さといった〈暗〉の部分をおし殺して「光」の部分に画一化されてしまう傾向が強くある。「路地」と「路地」のモデルとなった被差別部落も、前述したように〈暗〉に該当する杉皮葺きの粗末な家々が建ち並ぶ共同体が壊され、均質化の象徴とも喩えられるコンクリート造りの改善住宅が代わりに建てられた。
 だが、〈暗〉の部分が人間から消えることはない。「光」も「影」も「野蛮」さも、そして差別も、分け隔てなく全てを認めることで初めて多様性を獲得することができるのである。無論、差別を認めるということは、決してその行為を容認するということではない。差別行為自体が存在することを認めなければならないということである。差別の存在を認めてからでないと、差別の解消は不可能であり、前述した『紀州』の「古座川」のように構造上の差別があっても、表面上には差別はないことにされてしまう。そして、従来から続く〈差別はある〉と〈差別はない〉の終りの見えない応酬になってしまうのだ。
「路地」は、生と死、聖と賤というように多様性に満ちている。「路地」は「浄らかで純粋で無垢で、ナマケモノで、甲斐性がない人間ばかり」(注6)であり、住人たちは信心深く優しい一方で、どこか場当たり的で刹那的である。『千年の愉楽』の「中本の一統」の青年たちも同じく、オバを始めとする年寄りをいたわって気兼ねなく口をきいたりするものの、様々な悪事に手を染めて自ら死を招き入れてしまう。「路地」の多様性は、文学作品でしか描けない人間の「豊かさ」の表れなのである。
「路地」の「豊かさ」は作品内に登場する場所でも展開され、『千年の愉楽』後半所収の「天人五衰」、「ラプラタ綺譚」では南米へ、「カンナカムイの翼」では北海道へ拡がる。この拡がりも、グリッサンの言う「関係」からの「〈世界の響き〉」の一環として良いであろう。「天人五衰」では、敗戦後に満州から復員して「路地」へ戻ってきたオリエントの康が「リラとブーゲンビリアの咲く新天地」を求めてアルゼンチンに渡り、「ラプラタ綺譚」では新一郎がオリエントの康とは逆に「銀の河」のラプラタがある南米に渡った後に「路地」に戻ってくる。
 南米への拡がりから誰しもが想起するのが、中上作品とG.ガルシア=マルケスをはじめとする南米文学作品との相似性や親和性であろう。そこには、中上や南米作家らが手本としたアメリカ南部のプランテーション地帯を描いたW.フォークナーという〈源泉〉の存在があることは言うまでもない。中上はかつて「日本のフォークナーになる」とまで宣言をしたのだが、ここでは南米とは方向が異なる、北海道のアイヌと深く関わる「カンナカムイの翼」に注目したい。なぜならば、「カンナカムイの翼」が『千年の愉楽』所収の作品の中でクレオール文学的要素をひときわ強く備えているからである。
「カンナカムイの翼」では、「中本の一統」の血を引き継ぐ青年の達男が主人公である。彼は16歳の時に鉱山で働くために「路地」から北海道に渡り、19歳になる年に採掘現場で知り合ったアイヌの青年ポンヤウンペ(作品内の別称「若い衆」)を連れて「路地」に帰ってくる。二人を迎えたオリュウノオバは、彼らから北海道での暮らしぶりを聞いて次のように想いを巡らせる。

 オリュウノオバは二人が居なくなった後も、路地と同じような条件で生きている未知の人間(アイヌ)を識っていい知れぬ衝撃を受け、人間(アイヌ)、人間、カムイ、自然(カムイ)、神(カムイ)とつぶやき続け、ぼんやりと達男の言うようにオリュウノオバがポンヤウンペの産婆なら、ポンヤウンペをはげまし育てた火の祖母は誰なのだろうと考えた。
 オリュウノオバは考えつめ、自分が達男とそっくり入れ代る事が出来たなら、北海道に点在する人間(アイヌ)の路地(コタン)と路地を結び、理由なく襲いかかってくる者ら、いつでもしたり顔で近寄ってくる者らをやっつけるために弓矢を用意し、鉄砲を用意し、爆裂弾を用意して、戦争をするだろうと考えた。

中上健次『千年の愉楽』

 オバのつぶやく「人間(アイヌ)、人間、カムイ、自然(カムイ)、神(カムイ)」ということばは、まさしく差別を受けた「路地」とアイヌコタンの者たちが「人間」として生き、人々の生き様が「神」にも繋がるといった、クレオール文学的な〈世界の響き〉を思わせる。そして、「どこにでも路地のようなものがあるのが分かっていた」(「ラプラタ綺譚」)というオバには、世界に散在している「路地」的な空間を隔てる〈壁〉は存在しておらず、熊野の「路地」と北海道のコタンはオバの中で繋がり、融合される。「路地」のオリュウノオバは、「コタン」の「オリュウノ老婆(フチ)」でもあり、アイヌコタンにいるウップ老婆(フチ)は「路地」の「ウップノオバ」でもあるのだ。
 そして、オリュウノオバだけではなく達男の中でも「路地」とコタンは融合する。

 若い衆がウップノオバの背を抱いて家の方へ歩く後につきながら、達男は初めて、自分が一人大地の上に立っているのではなく、人と人との間にはさまれ、もまれて生きているのだと知り、自分がここに居るのも路地の様々な自然・神(カムイ)に支えられ生きているからだと識った。

中上健次『千年の愉楽』

 元々、達男とポンヤウンペは生れた時の境遇や体つきが似ているのだが、達男はコタンでウップ老婆(フチ)とポンヤウンペの姿を見て、自分もオリュウノオバに寄り添うポンヤウンペになり得るし、コタンも「路地」でありえることを悟る。
「カンナカムイの翼」では、達男とポンヤウンペの二人が「路地と路地(コタン)のそれぞれに生れた同じ人間である事、路地のある紀州と環境のまるで違うそこに同じような路地(コタン)があ」ることが念押しするかのように何度も語られる。つまり、場所も人も混淆して、その境目(ボーダー)がなくなるということなのだが、加えて「カンナカムイの翼」ではことばも交わる。前出した作品からの文章にあるように、作品内では「路地」のことばにアイヌのことばが重ねられて、〝ピジン語〟が生成されている。ピジン語の生成には、「この風土に昔から住み、転々と追われて来た者ら」の血をひく達男とポンヤウンペが互いの血をすすり合う「契り」から創る、「日本の新しい理想郷」というオリュウノオバの〈企み〉が込められている。それは、ことばが国の象徴であることから導かれるように、日本の〈中央〉から疎外され続けている周縁の者同士の混淆から生まれた、もう一つの日本である「隠国」の存在を示すものである。
 中上は『千年の愉楽』について、四方田犬彦との対談で「僕は自分の『千年の愉楽』のような仕事は、言葉で世界をひっくり返す。そのことにあの世界はかかってくるんだから、中本が何とかいうんじゃなくて、言葉の魅力とはとかさ」(注7)と語っており、「貴種流離譚」と評される中本の血を描くよりも、「言葉の魅力」、すなわちオリュウノオバの語りや、作品内で作られたピジン語が持つことばの〈力〉を利用して「世界をひっくり返す」ことを画策していたのであった。それは、ことばの〈力〉を操るオリュウノオバの姿と作者である中上の姿が重なるかのようである。
 そのように創られた「隠国」には、〈雑種(ハイブリッド)〉であることの誇りが込められている。達男は、前述したように「路地」とコタンの融合を悟ったものの、アイヌとなって生き直すためには夭折の宿命を思えば時間が足りないことから「路地(コタン)に住み、人間(アイヌ)になり切るには無理だと思った。若い衆と自分は同じだが、狭い小さな和人(シャモ)の町の山の隅に出来た、かさぶたのような路地で生れた中本の血は、誰とも交換不可能だ、と識った」とあるように、結局「若くして死ぬ運命なのだとはっきり自覚した」通りに鉱山でのいざこざに巻き込まれて若い命を落とす。しかし、中本の呪われた血を断ち切るべく、ポンヤウンペが新しい達男となって「あれの分も生きたろと思て」と、熊野の「路地」で生きることを決める。新しい達男は、二つの〈雑種〉性を持つ。一つは、「路地」と「路地(コタン)」のハイブリッドで、もう一つは生と死のハイブリッドであり、呪われた中本の血の〈純粋〉さには〈雑種〉であることで対抗するしかないのだ。彼は二つの出自を持ち、生と死の枠を超えて存在する「キラキラひかる揺り籠(シンタ)に乗ってやって来た神謡(ユーカラ)の、半分は自然・神(カムイ)、半分は人間の名」というポンヤウンペの名にふさわしい。
 新しい達男を拒むものは「路地」にはない。オリュウノオバは「一回目の達男の後に二回目の達男があってもよい」とし、二回目の達男の生を受け入れる。オバの行いは、「死んだ者や生きている者らの生命があぶくのようにふつふつと沸いている」(「六道の辻」)という「路地」の懐の深さを示しているのだ。



2.

 中上は熊野を「隠国」としたが、日本を真っ向から否定したのではない。まだ〈初期〉と呼ばれる1974年に発表したエッセイ「母系一族」では「(前略)イエも家庭も構成することのない母系一族は、イエや家庭を基にした父系の日本社会や世間とは相容れない敵対状態におちいるのは当然だった」とあるが、「相容れない」のことばは、日本という父系の国策をとった国における母系一族出身という出自との関係を問うているに過ぎない。中上は、ただ正史の光の当たる場所のみを〈日本〉とすることに我慢ならず、熊野を「隠国」としてもう一つの日本としたのであろう。それは、陰となって隠されていたものを明るみに出す行為でもある。存在や問題を透明化しないこと。違和を与え続けること。そして、常に考え続けることを中上は『千年の愉楽』以降も自身に課した。ゆえに、ユートピア的空間として作品に書き続けることが可能であった「路地」を、現実の被差別部落と同じように消失したものとした、と考えられる。そして、拙論の最初の章で引用した「〈日本〉と〈私〉は、どうつながるのか。重なっているのか、切れているのか。私の書くのは〈日本〉なのか。私は〈日本〉人なのか。そう問うわけです」という答えの出ることのない問いを生涯続け、被差別部落出身である自身と〈日本〉との関係、そして自分は何者なのかを問い続けたのであった。
 中上の遺した〈課題〉について、世界的潮流からグローバル化が叫ばれつつも進捗が不透明な今日の日本において述べておく必要がある。80年代後半から晩年の中上は連載の中断が重なり、多くの作品が未完となっている。それらの中でも、より雑種(ハイブリッド)性を意識して書かれたのが、「カンナカムイの翼」のモチーフが込められている大作「異族」(1984年~未完)であった。「異族」は、熊野の「路地」、在日韓国人二世、アイヌ民族といった、日本におけるマイノリティーである〝義兄弟〟の三人の若者に、アメリカ黒人と「路地」のハーフ、琉球の青年、台湾、フィリピンといったアジアの民族、そして満州国再建を目指す右翼の大物老人と旧日本軍の財宝(「ヤマシタ・トレジャー」)が関係してくるといった展開になっている。「異族」については、冗長かつ未完であることなどから、同時代評において評者の多くが取り付く島もなく「失敗作」という評価を下している。しかし加藤典洋は、「ある錯誤の産物たる失敗作」とし、「「未完であることが『異族』の本質」、「良くも悪くもおもしろい小説」、ここにだけ明確な否定がない」という独自の評価を下している(注8)。加藤の指摘する〈おもしろさ〉とは、恐らく、突き抜けた荒唐無稽さと、ある種のゲーム的なエンターテインメント性を感じさせる壮大な展開によるものであろう。
 柄谷行人は、「異族」で果たせなかった中上の思いは津島佑子が引き継いだとして、以下のようにインタビューで述べている。

(聞き手)――津島さんが坂口安吾的(「世界をポジティブに転換させる」こと―引用者)だということは、小説を書きはじめた当初から、そうだったということでしょうか。

柄谷 いや、それは、中上健次が亡くなったあとからでしょうね。たとえば、中上が生きていた頃の津島佑子は、自身の家族問題についてずっと書いていたと思います。太宰を含めて、死んでしまった「家族」と向き合いながら小説を書いた。その辺が、中上の死後変わったと思います。外に向かうようになった。中上は晩年、外国に行こうとしていました。主にアジアだけれど、外に向かう気持ちが強くなっていた。作品的にいえば、『異族』という小説に、そのことがあらわれていました。単に日本の被差別部落を舞台にして書いているのではない。「路地」というのは、どこに行っても存在する。晩年の中上はそういう世界を引き受けて、小説を書こうとしていた。その矢先にガンで死んでしまったわけです。その意味で、津島佑子は、中上健次も引き継いでいるといえます。(注9)

「柄谷行人氏ロングインタビュー すべては坂口安吾から学んだ」

 津島は最期の連載作品『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(2016年)において、1600年代を舞台にアイヌの血を引く隠れキリシタンの少女チカップが海を越えて流浪をするパートと、近代化による帝国主義政策で〈日本人〉として同化を強要され〈日本人〉として戦争に参加しながらも、敗戦後に一転して〈日本人〉ではないという扱いをされて辛酸をなめた北方少数民族ウィルタ族のゲンダーヌ氏が登場するパートという二つの物語を展開している。そして、チカップとゲンダーヌさんの姿に2011年に発生した東日本大震災、なかでも福島第一原子力発電所の事故によって住み慣れた土地を離れなければならなくなった避難者たちの姿を重ねる。中でも、自主的に放射能汚染の恐れから避難をした避難者たちは、公的な援助が乏しいうえに自己責任論に苛まれたあげく、〈棄民〉に近い扱いをされていることがより二人に重なるところであり、中上が自身に課した正史に隠されてしまいそうな〈陰に光を当てる〉といった〈課題〉を津島が引き継いだと言えよう。
 津島は、ドイツで行われたシンポジウムに中上と共に出席した際、中上が創り出した「路地」とことばをめぐる深い〈溝〉を目の当たりにしたことを、「アニ中上健次の夢」(注10)という中上への回顧録で記している。そのシンポジウムとは、前出した〈塗っても塗っても隙間のあく空〉の講演後に行われたものであった。
 シンポジウムの途中、なぜか司会者が、あろうことか中上ではなく津島に「路地」の説明をするように耳打ちしたという。津島は抵抗したが、大勢の聴衆もあったので仕方なく説明を始めたものの、中上本人が「違う!」と怒って声を上げた。津島は中上が怒って当然と思い、中上に説明するように求めて本人も応じたところ、中上は以下のような様子だったという。


 しかし、彼の口は一向に開かず、全身がひりひりするような沈黙がつづいた。何分かが経ち、彼の様子を見るに見かねて、司会役の小説家が、たまたま会場にいた日本人の歴史研究家に、現在、解明されている範囲での歴史的な背景などの説明を求めることで、その場を切り抜けた。彼は無言を守り続けていた。

津島佑子「アニ中上健次の夢」

 無言であった中上の態度を、〈怖気づいた〉ととる人もいるやも知れない。しかし、反対に一種の〈決意表明〉ととることもできる。それは、津島の以下の回想から導くことができる。

(前略)彼はどんな言葉にせよ、口にすることができなかった。彼にはそもそも、「路地」の説明という行為が起こり得ることではなかったのだ。あらゆる言葉、説明を拒否する磁場だからこそ、「路地」なんだ、と本当は叫びたかったのではないか。しかし、そんな叫びが受け入れられるような場ではないことも彼は理解していた。同時に、自分が「説明」など決してできないことも、彼は知った。そういうことではなかったのだろうか。

津島佑子「アニ中上健次の夢」

「あらゆる言葉、説明を拒否する磁場」である「路地」を、文字で刻んで文学作品にすることの暴力性について、中上はいやというほど知っていた。文字を知らないオバたちの豊かな語りを、彼女らが読むことのできない文字に記すという暴力的な矛盾がそこにはある。だからこそ、津島が思うように中上は「自分が「説明」など決してできないこと」を知っていたのだ。ゆえに、中上は大勢の聴衆を前に無言の姿勢を貫くことで、〈「路地」とはこういう場所だ〉と主張をしたのではなかろうか。
 柄谷が述べるように、中上の死後、津島は「外に向かう」作品を多く発表するようになるが、「外へ向かう」方向性を決定付けたのは、中上の死の前年、メキシコでの「文学者と科学者共同の国際会議」に参加し、アイヌ口承文芸をほぼ黙殺し続けてきた日本文学の問題点とアイヌの口承文芸の素晴らしさについてのスピーチを行ったことと、翌年、パリ大学の学生たちとアイヌ叙事詩の仏語訳に取り組んだことにある。津島の行動は、中上同様に「〈日本〉と〈私〉の間に越えられない距離」があろう「書き文字とまるで無縁の世界」にいた人びとへ光を当てることであった。そして津島は、アイヌ叙事詩の仏語訳の作業の最中にパリで中上の訃報を聞く。日本から離れた異国の地において知った訃報から、フランクフルトでの中上の姿を目の当たりにした津島がより「外へ向かう」ことを志向したとしても不思議ではないだろう。
 中上と津島が志向した「外へ向かう」行為だが、現在は難しい局面に差し掛かっている。急速に進んだ多様性の容認とグローバル化の揺り戻しとして、アメリカのトランプ前大統領による反グローバリゼーション的な政策に代表されるような、過激な保守思想と排他主義が各国で台頭する事態になっているのだが、もちろん日本も例外ではない。
 在日韓国人として心無い差別を受けてきた柳美里は、インタビュー(注11)で悪化しつつある差別行為の現状について次のように語っている。

「そもそも、差別はずっと前からあったわけです。子どものころ、いじめを受ける時に『ナントカ人』というふうに言われていたように。それでも当時はまだ、差別的な発言をするのは恥ずかしいことだという共通認識があった」

「しかし、最近はそうではなくなりましたよね。社会的な地位にある方や、企業の代表者などが差別的な発言をするようになっている。街中でもヘイトスピーチが聞かれるようになってしまった。差別主義者が一般社会で街宣活動をするようにもなっていて、都知事選で十数万の票を集めることもある。しかも、前回よりも数万伸ばして。これは大きな変化であり、危機的状況だと思います」

「「本名を名乗れ」「反日なら帰れ」芥川賞作家・柳美里さんが匿名の刃と向き合う理由」
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/yu-miri-1

 柳は、ネガティブな差別行為の拡大の傾向には、ツイッターなどのSNSに拡がる「雑な言葉」が一因にあるとしている。「雑な言葉」とは「個人が(日本人、在日韓国人、被災者といった属性の―引用者)大きな括弧でくくられてしまうような」言葉であり、「雑な言葉」は「ひとりひとりが顔を持って、歩んできた人生が見えなくなってしまうのです」と話す。そして「雑な言葉」を言い放ってきた人物に対し、柳は深く傷付きながらも放置することなく、根気強く「丁寧な言葉」で対峙をする。

「大きな括弧でくくられた雑な言葉に対抗できるのは、人の顔であり、人の名前であり、その物語です。140字ではなかなか難しいけれども、なるべく丁寧に伝えようと思っています。そうすれば、私の場合でいえば在日韓国人というよりも個人であると、相手にとって顔が見える瞬間があるかもしれないですから」

「「本名を名乗れ」「反日なら帰れ」芥川賞作家・柳美里さんが匿名の刃と向き合う理由」
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 柳のとろうとしている「丁寧な言葉」による差別の解消は、非常に難しい。なぜならば、人は時にエキセントリックで暴力的な言葉に惹かれてしまうからである。ましてや、2020年から突如起こったCOVID-19の世界的なパンデミックによって、これまでに想像をしたことのないような様々な不安が膨らみ、「丁寧な言葉」を理解しようとする余裕や、絶え間なく思考を続ける気力が失われつつある。ひょっとしたら、『千年の愉楽』の「ラプラタ綺譚」でオリュウノオバが案じた「四民平等だと言うがひと度昔のように物資が不足したりかつてあった震災のような事が起ると(「路地」の者らが―引用者)皆殺しに会うのは見えている」という危惧が、マイノリティーの身近にあるとしても決して大げさではないのかも知れない。そして、マイノリティーとマジョリティーの違いが、いつ逆転してもおかしくない、非常に脆いことも知っておく必要がある。
 中上やクレオール文学の作家らが文学を通じて提唱をした、ことばから世界へ繋がることで有機的な関係を築くことは難しい状況にある。しかし、この閉塞する世界を打ち破る力として、安易な方向へ逆らうクレオール文学的なものへ再び脚光を浴びせる必要があるのではなかろうか。共生する世界は、その〈関係〉を想い、考えることからしか始まらないからだ。

(了)


注記

  1. パトリック・シャモワゾー講演会「戦士と反逆者 クレオール小説の美学」(進行:星埜守之、塚本昌則、2012年11月13日、於:東京大学本郷キャンパス)、出典は「週刊読書人」2013年2月22日号より。

  2. エドゥアール・グリッサン「さまざまな道程 声に出して、隔たりを記すために」(管啓次郎訳『〈関係〉の詩学』インスクリプト、2000年)。

  3. ヴァルター・ベンヤミン、三宅晶子訳「物語作者――ニコライ・レスコフの作品についての考察」(浅井健二郎編訳、『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』ちくま学芸文庫、1996年)。

  4. ルース・ベネディクト『レイシズム』(阿部大樹訳、講談社、2020年)。

  5. 同注1。

  6. 中上健次「桜川」(1980年、『熊野集』所収)。

  7. 中上健次、四方田犬彦対談「転生・物語・天皇」(柄谷行人、絓秀実編『中上健次発言集成2』第三文明社、1995年)。

  8. 加藤典洋「没後一年の中上健次」(『文学地図 大江と村上と二十年』朝日新聞出版、2008年)。

  9. 「柄谷行人氏ロングインタビュー すべては坂口安吾から学んだ」(「週間読書人」2017年10月20日号)。

  10. 津島佑子「アニ中上健次の夢」(『アニの夢 私のイノチ』講談社、1999年)。

  11. 籏智広太「「本名を名乗れ」「反日なら帰れ」芥川賞作家・柳美里さんが匿名の刃と向き合う理由」(BuzzFeed News https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/yu-miri-1 2021年3月9日公開)。


【参考文献】

今福龍太『増補版 クレオール主義』(ちくま学芸文庫、2015年)

上野俊哉「ラグタイム――ディアスポラと「路地」」(『ディアスポラの思考』筑摩書房、1999年)

小野正嗣『NHK 100分de名著 フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』2021年2月』(NHK出版、2021年)

菅啓次郎「声の記憶、文学の言葉 クレオル文学と中上文学の接点」(「別冊太陽 中上健次」2012年)

高澤秀次「中上健次とクレオール性の文学」(『文学者たちの大逆事件と韓国併合』平凡社新書、2010年)

恒川邦夫「カリブ海の島々から――クレオールの挑戦」(小森陽一ほか編集『岩波講座 文学13 ネイションを超えて』岩波書店、2003年)

中村隆之『フランス語圏カリブ海文学小史 : ネグリチュードからクレオール性まで』(風響社、2011年)

若松司・水内俊雄「和歌山県新宮市における同和地区の変容と中上健次」(大阪市立大学『人権問題研究』1号、2001年)

エドゥアール・グリッサン『〈関係〉の詩学』(管啓次郎訳、インスクリプト、2000年)

パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアン、ジャン・ベルナベ『クレオール礼賛』(恒川邦夫訳、平凡社、1997年)

パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアン『クレオールとは何か』(西谷修訳、平凡社、2004年)

フランコ・モレッティ『遠読』(秋葉俊一郎ほか訳、みすず書房、2016年)

ロベール・ショダンソン『クレオール語』(糟谷啓介、田中克彦訳、白水社文庫クセジュ、2000年)

「現代思潮」1997年1月号(特集「クレオール」)

※なお、中上健次作品の本文引用については、特に記述が無い限り『中上健次全集』1~15巻(集英社、1995年~96年)に拠った。