見出し画像

【評論】救いを問いかける――赤坂真理『箱の中の天皇』論②

(論文内の人名は敬称略となっております。ご了承ください)

2.「箱」と「空」

『箱の中の天皇』は、『東京プリズン』ではアメリカに留学中の高校生だったマリのその後を描いている。
 舞台は、天皇(この作品では令和に譲位をした明仁上皇)が生前退位を「お気持ち」として表明した一年前、母親と横浜を訪れたマリはメアリと称する白塗りの娼婦からの指令で、連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQ)の最高司令官であるマッカーサーが持つ天皇の〝たま〟が入った本物の「箱」を偽物の「箱」とすり替えるミッションを遂行する。そして、その一年後(つまり「お気持ち」を表明した年)、神話的な空間の中で天皇の臨席のもとマッカーサーと「国産(くにう)み会議」で対峙をする、というのが小説の柱であり、そこに様々な歴史やマリ自身の過去が絡んでくる、といった展開になっている。
『箱の中の天皇』も『東京プリズン』と同様に、時間や空間を飛び越える複雑な構造を有している。康潤伊は、石牟礼道子を強く想起させるマリが傾聴ボランティアをしている老女の道子さんや、「ハマのメリーさん」(注1)がモデルと思われるメアリといった登場人物に「実在の人物と何重にも重ねあわされ」た「相同性」を指摘し、「小説外の固有名がまとう意味も積極的に呼びこむことで、この小説には、充足した意味が結ばない仕掛けが施されているのだ」(注2)とする。そして題名にもある「箱」の読解について、以下のように述べている。

うまく結ばない意味を前に、読者は箱に意味を充填したくなる欲求に駆られる。それが批判であれ礼賛であれ、意味の充填をただ待つという点において、『箱の中の天皇』という小説自体もまた箱なのである。この小説が問うているのは、箱にどのような意味を込めるのかであろう。小説には、「物語の空位は、何かで埋められなくてはならなかった」という一文があるが、これは『箱の中の天皇』の読まれ方をも示唆している。

康潤伊「反・明治の身体――唐十郎『二都物語』と柳美里『Green Bench』における李礼仙――」(「文学・語学」第227巻、2019年)

 康潤伊は、右のようにこの小説自体が「箱」であるとともに、「「天皇」とは、どんな考えでも飲み込んでしまうブラックボックス」という小説内の一文から、天皇をはじめ巫女的な役目を担う道子さん、メアリ、そしてマリ自身も「容れ物のような存在という意味において箱である」(注3)としているが、そのように考えると、この小説の構造が「箱」、もしくは入れ子のようになっていると捉えることができるであろう。
 この入れ子の構造については、かつて「文藝」誌上の『東京プリズン』刊行記念インタビューにおいて、インタビュアーである精神科医の斎藤環と赤坂が以下のようなやり取りをしている。

斎藤 (『東京プリズン』は―引用者)母と娘の話が主軸にあるじゃないで すか。「母と娘の関係」というのは、通訳や天皇制とも構造的に通底しているんだけれども、それは、がらんどうのものを入れ子にしていく感じなんです。
赤坂 入れ子というのは、たしかに箱とか器とか、作品内のイメージに近いですね。

「母殺しの不可能性と天皇制――アメリカ、ヤンキー、母性原理」(「文藝」2012年秋号)

 この発言を意識しての『箱の中の天皇』とは言い切れないが、「がらんどうのものを入れ子にして」そこに意味を持たせることは、『箱の中の天皇』で終始登場する「箱」と「空(くう)」の関係を思い起こさせる。作中で「箱は何でも入れる、寛容な容(い)れ物に見えるけれど、非常時に「なぜその箱があるか」という理由と、何が入っているかを、説明できない。」という文章がある。確かに、小説内で「箱」が何を指すのか、「箱」が何であるのは明かされない。従って、何重にもあるかのような「空」や「箱」が持つ意味は、読者それぞれの解釈にゆだねられることになる。それは、父親の事業の失敗によって手放してしまったマリの家、ひいては日本という国も「寛容な容れ物」もしくは〈うつわ〉としてみれば「箱」とすることができるだろう。
 そのように多様な読みが可能な「箱」だが、作品の中心にあるのは天皇および天皇制の「空」と「箱」である。天皇はマリの考えるように、「私の国の人なら知らない人がいない」ながらも「誰もそれが何か、よくわかりはしない人」という、相反する不思議さを有している。しかし、恐らく日本人の多くは、その不思議さを深く考えてはいない。「お気持ち」発言への国民の圧倒的な共感(注4)から、令和の元号改元のイベント化などを鑑みても、天皇とはどのような人(個人)なのか、といったことにマスコミなどはほぼ触れていないうえに、国民も深くは考えようとしていなかったのではなかろうか。大塚英二は『感情天皇論』(ちくま新書、2019年)の「序章 私たちは明仁天皇の「ことば」をいかにして見失ったか」において、天皇の「お気持ち」を「私事の感情」とだけ捉え、天皇を「考える個人」とみなしてこなかった風潮を指摘したうえで、「結局のところ「平成」という時代は私たちが「天皇」について考えることをサボタージュしてきた時代ではなかったか。」として、平成という時代における天皇と国民との関係を総括している。大塚のこの指摘は、まさにそうであろう。「お気持ち」をめぐる動きは、憲法にある〈天皇は象徴〉の表面をなぞるだけで終わっているのだ。
 その背景には、天皇という存在の語り難さがある。『箱の中の天皇』でいう、近代の「いつも空白の中心のように在り、むしろその周りが、権力を持」った天皇制という「箱」に入れられてしまった天皇、そして根拠を持たない、中身が「空」である神話の元につくられた〈現人神〉という、二重の「空」がそのようにさせているように思える(注5)。その一方で、この「箱」と「空」については少し違った側面からも考えることができる。
 赤坂は『東京プリズン』と『箱の中の天皇』の間に、評論集『愛と暴力と戦後のその後』(講談社現代新書、2014年)を出版している。赤坂自身が「まえがき」でこの本を「これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。」と位置付けているが、その中で、天皇制への語り難さについて次のような分析を述べている。

 日本の近現代の問題は、どこからどうアプローチしても、ほどなく、突き当たってしまうところがある。それが天皇。そして天皇が近代にどうつくられたかという問題。
 だが、天皇こそは、日本人が最も感情的になる主題なのである。もっと言えば、人々は、天皇の性に関して、天皇が「男である」ということに関して、最も感情的にある。さらに「国体=国のなりたち」が、男性的であるか否かをめぐって。日本の今の外交問題が危ういのは、その素朴さで意地の張り合いが行われているからである。人が根拠なく感情的になることこそは、強固なのである。
(第1章「母と沈黙と私」)

赤坂真理『愛と暴力と戦後のその後』(講談社現代新書、2014年)

 つまり、近代天皇制の〈天皇は男系の男性でなければならない〉という決まりによって、人々は天皇を感情的にしか語ることができないとしている。その「感情」のために、天皇や天皇制への語り難さが発生すると言うことができよう。この天皇制にある男性による世襲の呪縛だが、同書においてオウム真理教にも通底していることを赤坂は指摘している(注6)。
 オウム真理教の教祖だった麻原彰晃の逮捕後、麻原の娘がメディアに教団の後継者として名前を発表したのは、まだ幼児だった彼女の弟であった。赤坂はこのオウムの後継者発表について、チベット仏教の〝転生〟による継承やシャーマニズム的宗教においては女性後継者の世襲への違和がないことを挙げ、それらの宗教と宗教性の親和が見いだせるオウムの後継者決定のセオリーがかけ離れていることを述べている。
 そして、オウムの〈後継者は世襲で男子〉という決まりから〈女性だから〉という理由だけで「生まれてこのかた、「お前ではダメだ」という視線を不特定多数から受け続けて」いる愛子内親王を思い出し、彼女への〝応援〟を記したうえで、次のような疑義を呈す。

 その世界(愛子内親王が女性であるがゆえに「要らない」と暗に言われ続ける世界―引用者)にあるのは、こういう命題だ。
 後継者は、世襲で、かつ男系の男子でなければいけない。
 オウム真理教のような、シャーマニズム的な新興カルトまでが、ごく素朴にそうするとしたら、そこには近代天皇制が水のように染みているとしか言いようがない。
 そしてどこまでも「近代天皇制」であり、近代以前の天皇のことではない。
(第6章「オウムはなぜ語りにくいか」)

赤坂真理『愛と暴力と戦後のその後』(講談社現代新書、2014年)

 世襲という枠を外してみても、日本のあらゆる組織において〈男性優位〉のルールが染み付いている。それについては、2020年に発足した高齢の男性大臣ばかりで一部から非難が出た菅政権をはじめとする日本の政財界の顔ぶれにはじまり、世界経済フォーラムが発表した「ジェンダー・ギャップ指数2021」で日本が156カ国中120位という低順位の結果に終わったことからも理解することができるだろう(注7)。
 ここからは近代天皇制に話を戻すが、世襲の後継者が男系の男性でなければならない理由は一体何であるのだろうか。この〈単純〉とも言える疑問についても、ネット上をはじめ人々は感情的な意見を闘わせている。しかし、国民誰しもが納得する答えは出ていない(注8)。恐らく、明確な答えが存在しないからこそ、人々は感情的にならざるを得ないのだが、そこで気が付くことがある。やはり、男系男子の世襲という「箱」である天皇制は、明確な答えがないという「空」なのだということだ。
 近代天皇制を支えた「神話」は、中が「空」な「箱」だと言うことができるとしたが、『箱の中の天皇』で、GS(GHQの民政局)とマリが明治維新で天皇を旗にたとえた「錦の御旗」(天皇を「個人的カリスマ」ではなく「機能」として必要としていたこと)について議論をする場面に次のようなやりとりがある。

考えていると、GSの人が言った。
「たしかに、明治の『革命』を担った人は天皇を、旗にたとえましたよね。しかしそのずっと前からです。天皇は、いつも空白の中心のように在り、むしろその周りが、権力を持ち、天皇からは権威を借りていました」
「たとえるなら空き地。箱。神の降り立つ、中が空っぽのスペース」
(中略)
GSの人が返してきた。
「あなたがたの信じる神のことはわかりませんが、権威を借りるために、日本人の歴史上の権力者たちが、天皇のことはいつも残しておいたのは事実です。天皇はそうして、近代がくるまで生きのびました。歌を詠み恋をしていました。わずかな例外はありますが。そういう、受動的な存在です。だから、今、天皇制についてわたしたちが問われたのであれば、女性はむしろ天皇にふさわしい感じがします。それは男女同権の観点からではなく、天皇というものの歴史を見たとき、非常に女性的な感じがするからです」

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

 この「女性はむしろ天皇にふさわしい」という言葉を、勝利国のGSが放った意味は大きい。彼らは、言うまでもなく他国、しかも敵国の人間であることから、天皇制と断絶しているとして差し支えないだろう。それはすなわち、日本人が陥りがちな〈感情的に天皇を語ること〉から解き放たれていると言える。だから、このようなしがらみのない、忌憚のない意見が出せるのである。一方で、当事者である日本はどうなのであろうか。『箱の中の天皇』のマッカーサーは、以下のように日本を指して言い放つ。

しかし、いずれにせよ天皇家が存亡の危機に瀕するようにしむけたのは、アメリカではないよ。天皇継承者は男系男子のみだなどという厳しい縛りを与えたのはアメリカではない。明治の日本人であり、大戦後の日本人も、それを残した。まるでそれが最後の男のプライドだとでもいうように。

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

 なぜ、日本はそれほどまでに「男」であることにしがみつくのであろうか。
 そこには、敗戦によって深く傷つきながらも、救われることがなかった「男」たちの姿が現れるのである。

(3.救われなかった「男」たちに続く)

 

【注記】
(1)「ハマのメリーさん」は実在した米軍相手の街娼。白塗りの独特の化粧と白づくめの華美なドレス姿で、90年代半ばまで横浜の街かどに立ち続けた。横浜の伝説的な存在となったため映画や演劇の題材になり、彼女の存在を追ったノンフィクションをはじめとする書籍も出版されている。
(2)康潤伊「反・明治の身体――唐十郎『二都物語』と柳美里『Green Bench』における李礼仙――」(「文学・語学」第227巻、2019年)
(3)同注(2)
(4)大塚英二『感情化する社会』(太田出版、2016年)内「第一章 感情天皇論」において、「「お気持ち」に対する「国民」の圧倒的な「共感」」についての分析が述べられている。
(5)天皇制の「空」について、ロラン・バルトによる興味深い言及が以下のようにある。東京の中心に位置する皇居について述べているため注に記しておく。

わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。
(「中心――都市 空虚の中心」)

ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫、1996年)

(6)オウムについては、後述する世襲制度に加えて、敗戦の点でも共通点があることをここで述べておく。それは、赤坂の「「総括」されないものは、繰り返される。」や「オウムの語りにくさは、日本の語りにくさである。それに十分な言葉は、まだ誰も、与えていない。与えないまま、忘れようとしている。」(『愛と暴力と戦後のその後』内「第6章 オウムはなぜ語りにくいか」)といった指摘を読めば理解できよう
(7)「ジェンダー・ギャップ指数2021」については内閣府男女共同参画局のホームページ内「「共同参画」2021年5号」を参照(最終閲覧日:2022年1月29日)。順位が高いほどジェンダーの格差が少ないことを示している。なお、同ページには「(日本がー引用者)先進国の中で最低レベル、アジア諸国の中で韓国や中国、ASEAN諸国より低い結果となりました。」という記載がある。
(8)いわゆる「皇位継承問題」については、2004年に「皇室典範に関する有識者会議」が設置されて関心が高まったものの、2022年になった今日においても男系天皇維持派、女性天皇論容認派、旧皇族復帰派などの間で議論が続いており、結論は出ていない。なお、2020年11月に令和の譲位に関する一連の儀式及び行事が終了したことに加えて、2021年10月に秋篠宮眞子内親王が結婚して皇籍を離脱したこともあり、宮家の存続問題も含めた皇室に関する議論が活発化すると予想される。