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救いを問いかける――赤坂真理『箱の中の天皇』論③

3.救われなかった「男」たち

『箱の中の天皇』における「男」は、マッカーサーとプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の海軍士官ピンカートンに象徴されている。二人ともアメリカ人であるうえ、ピンカートンはまだ年若い日本人の少女の蝶々を妻にし、マッカーサーはマリを「コールガール」と呼び、横浜の街娼であるメアリとの〈関係〉を匂わせるという、戦後のアメリカと日本の関係を男女関係に当てはめる〈縮図〉として登場しているのだ(1)。
 マリはマッカーサーと初めて対面した時に「これは恋愛じみている。/当時の日本人が熱狂したわけがわかる」と、彼の姿を見て当時の日本人の心情を悟る。マッカーサーは、格好良いとは言えないが「パパが、女好みのおしゃれと、ママ好みの品々を背負ってやってきた。これは、うける」とマリがいうように、日本には無かった西洋のダンディズムを体現していたのだった。そして、そのような彼とダンスを踊るマリは、以下のように敗戦後の日本へ思いをめぐらせる。

  マッカーサーに、いない父を、そこにいたのにいなかった父を、見ている。
 わたしだけでなく。この国の、この時代の、ほぼみんなが。男も女も、そうした。
 それゆえ彼を熱狂的に愛するか、嫌悪するか、いずれの感情しか持てなかった。無関心ということができなかった。冷静という状態がなかった。

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

  作中でマリとダンスをするマッカーサーは、巧みにマリをリードする。その巧みに〝日本人〟をリードする行いは、現実のマッカーサーの行いと重なっているかのようでもある。
 敗戦後、失意の底にあった日本国民の声をGHQ及びマッカーサーが投書の形で拾っていた。袖井林次郎『拝啓マッカーサー元帥様――占領下の日本人の手紙』(岩波現代文庫、2002年)内の「プロローグ」では、GHQならびにマッカーサー宛に届いた投書は50万通を超える膨大な量であったとしている。投書の数の多さについては、敗戦直後(「終戦の詔」から二日後)に発足した東久邇宮内閣からの、内閣への投書の呼びかけが端緒だったのではなく、GHQが投書を推奨したわけでもなく、「まったく自発的な形で九月の上旬から届き始めていた」としている。その理由について、「これまで押しとどめられていた国民の情動(※「情動」に「エモーション」のルビ―引用者)の表出という点では(東久邇宮内閣宛とGHQ宛の投書は―引用者)根が同じだが、願いが実現するかもしれないという期待感は、マッカーサーあての手紙の方がはるかに強かったといえよう」と袖井は推察している。このGHQ及びマッカーサーへ寄せる日本人の期待の高さの背景には、彼らが日本人からの投書を全て読んで戦略的に占領に活かしていたことが理由の一つとしてあげられる。そして、国民の動揺を抑えるために皇族として初めて首相となった東久邇宮稔彦王率いる内閣が、わずか54日間しかもたなかったうえ、一部の上層部の人間たちは国の再建よりも私腹を肥やすことに精一杯だったこともあり、〈国に期待をしてもダメだ〉という失望が日本国民の間に沸き起こったこともある。
 同書で紹介されている投書の内容は様々だが、ここで注目したいのは男女の関係なくマッカーサーを「父」ないし「男」とみなしていたことである。袖井はそのような投書の多さから「占領下の多くの日本人にとって、マッカーサーは何よりも父性(ファザー・フィギュア)を代表していた。(中略)日本中の多くの家族がマッカーサーの中に「父」を見出した」としている。そして「混乱の時代には、家族のメンバーが外来の支配者の中にさえ強い父親のイメージを求め、その指導力に期待するとき、女性はその人物に強く頼りがいのある男を求めても不思議ではない」とし、「(女性たちは―引用者)当時の日本の男性には払底していた男らしさを、マッカーサーに見出し、それにすがろうとする」と記しているが、なかには〈マッカーサーの子どもを産みたい〉という〝直球〟な手紙を送った女性もいたという。
 これら実際の投書は、次のような『箱の中の天皇』のマリが抱いたマッカーサーへの感情に通じるものがある。そして、マリはそのような思いの先に存在している、敗けた国である日本の「男」たちを慮る。

 〝父が、あなた(マッカーサー―引用者)のような人であったらよかった〟
 そう言いそうになって、必死に飲み込む。言ったら自分が崩壊しそうに思えた。
 父は、これほどわかりやすく強いほうが、愛せたし、憎めた。
 わたしは父のことを、考えたことがなった。
 負けた国の男の気持ちを、わたしはまったく考えたことがなかった。
 こういう「父」が外からやってきて人々とりわけ女たちが夢中になってしまった国の男は、一体どうやってプライドを守ったのだろう?「それが経済戦争」、という理解がやってくる。しかし経済戦争にも、負けたのだ。

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

  その、先の戦争で敗戦を経験し、バブル経済崩壊で多額の負債を抱えて家を手放してしまった、30年前に亡くなったマリの父が登場する。彼は「国産み会議」の場に突如現れ、最愛の娘に向かって敗れた者の心情を次のように吐露する。

 「何をしても、いつか失われるのではないかというおそれ。家、愛する者たち。一度、敗戦の時に思った。すべて奪われるのではないかと。(中略)結婚してもずっとこわかった。そういう(満州のソ連軍や中国大陸の飢えた日本兵がしたような略奪や強姦―引用者)夢を見た。何度も見た。それを誰にも言わなかった。ママにも、さいわい、そういうことは起きなかった。少なくとも、うちには。なぜ奪われなかったかは考えなかった。長い目で見て、もっと効果的に奪おうとしたのかもしれなかった。それが、うまい勝者かもしれなかった。パパたちは敗けた。戦争に敗け、それからあまりに視野が狭くなって、目先の儲けにしがみついた。だから、経済戦争にも敗けてしまった」

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

  結局アメリカ軍は、懸念されたむごたらしい行為を日本ですることはなかった。この〈紳士的なふるまい〉もアメリカ軍の策の一端なのであるが、それはともかく、マリの父が言うようなおそれは杞憂に終わったのだ。その傍らで、アメリカ軍は民主主義という政治、自由な文化、豊かな物資等々といった当時の日本人からすると〝キラキラ輝く〟ものを持ち込む。先にあげたマッカーサーが体現した西洋のダンディズムと併せ、これらによって日本国民の多くが、アメリカという国が〈見たことも経験したこともない場所へ日本を連れて行ってくれるはずだ〉という期待を寄せ、結果としてかつての敵国にもかかわらず彼らのとりこになってしまったことは想像に易い。しかしその反面、そのような日本で、戦争をしかけた側とされる「男」たちのメンツはどうなるのであろうか。
 赤坂は、『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書、2020年)の「第一章 敗戦と父の不在」において「しかし、男はどういう気持ちだったんだろう?! /わからない。/それは想像を絶する。/そのプライドの折れ方。ねじれ方」として、ここでも『箱の中の天皇』と同様に敗戦後の「男」たちを思っている。そして、同書で彼らの心情について以下のように、マリの父と通じる考えを述べている。

  戦争に負けて、あるいは喧嘩に負けて、今度は負けないと思うのは、自然な人間心理である。が、戦後日本の時空間では、そういう言説が禁じられた。戦争は悪であり、二度としてはいけないものなのだから。口にするのも悪だった。男は黙った。黙って働いた。黙って死ぬほど働いた。
(「第1章 敗戦と父の不在」)

赤坂真理『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書、2020年)

  世界各国から〈奇跡〉とも称された戦後日本の急速な復興と経済成長が、実は男たちのねじれたプライドが糧となっていたということを深く考え、言葉にして表に出した者はこれまでいなかったであろう。その理由は、『箱の中の天皇』でのマリのつぶやきが明かしている。

  戦争に敗れた国の男の気持ちを、わたしは考えたことがなかった。それを考えてはいけない無言の強制が、社会にあったように思う。

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

  上記で「わたしは」としているが、決してマリが特別なのではない。日本人の多くが、敗けた「男」たちの心情を考えようとしなかった。「無言の強制」に圧され、見て見ぬふりをしながら、挫折の上に繁栄した経済の恩恵にあずかっていたのだった。そのように考えると、この経済繁栄が砂上の楼閣であり、あっけなく崩れてしまったことは、非常に残酷だが当然のようにも思われてくる。
 そして、当事者の「男」たちは、敗けたことで折れてしまったプライドを、弱さを告白することでさらに折ってしまうことをおそれたのか、戦争を語ることをしなかった。その行為を赤坂は以下のようにエッセイで指摘をしている。

  男の悔しさというのは、語ってはいけないものになっていた。なぜなら、あの悪い、忌まわしい戦争は、男がしたものだからである。女はただ逃げ惑ったのだ。ただ被害者だったのだ。そういうことになっている。そして誰もが、できれば被害者のように自らを語りたかったのである。それは、誰もが「女性語り」をしたということである。けれどその陰には、言葉にできない男の折れ方があったはずだとわたし(赤坂―引用者)は思っている。
(「第1章 敗戦と父の不在」)

赤坂真理『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書、2020年)

『箱の中の天皇』で〈弱さ〉を告白したマリの父は、娘と、そしてその場に現れたマリの母とも涙を流す。マリは、母に抱かれた父が泣くのを初めて見る。このように、敗けた「男」たちが女性の前で心情を告白し、涙を流せたのならば、どんなに楽になっただろうか。そして、作中でマリが救われたと言う、ドイツの大統領であったヴァイツゼッカーが1985年5月に行った演説(2)のような、「わたしの国の戦後に切実に必要で、でも、無かった言葉」があれば、どれだけ救われたのであろうか。悲嘆すべきことに、日本では公に戦争で戦った者たちへの慰藉の言葉はいまだにない。それは、誰も戦争の総括をしないままで、ここまできてしまったことを意味している。
 敗戦から約80年あまりが経とうとしている今、後に続く者に課せられた使命は考え続けることしかない。マリは、「コールガールよ、お前は何をしたいのだ」と言葉をかけてきたマッカーサーに向かってこのように言う。このマッカーサーの言う「コールガール」を、前述したように日米関係を男女関係になぞらえ、性差を越えた日本人を指すものと考えると腑に落ちるであろう。

 「考え続けることです。人間として、日本の国民として、天皇とも一緒に考え続けることです」

赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社、2019年)

  奇しくも、前述した大塚英二の平成を指して「「天皇」について考えることをサボタージュしてきた時代」という約言に呼応するように、令和、そしてそれ以降も天皇や天皇制とともに敗戦を考え続けることの必要性へ辿りつく。
 歴史修正主義への支持が台頭している昨今、もしかすると〈敗戦の〝事実〟が覆ることは無い〉という不動の考えが甘かったものになるおそれがある。現在において、そのおそれは杞憂に過ぎないのであろうが、近い将来そうとは言い切れなくなるような、不気味な雰囲気を感じざるをえない。そのような不安が広がる中で、先の戦争と敗戦、そして敗けた者たちをこのように考え続けることは、果たして可能なのであろうか。しかし、心細くなっても、私たちは考え続けなければならない。それが、戦争を総括できていない国の国民の努めなのかも知れないからだ。

 4. おわりに

『箱の中の天皇』を紐解くと、天皇を制度と切り離して個人として捉えることに加えて、近代天皇制で(男たちによって)定められた男系男子の世襲の呪縛から、敗戦後の「男」たちの救われなかった姿が浮き彫りにされる。そして、その「男」たちの息子世代が、今の社会において居場所の無さや生き辛さを象徴する存在になろうとしていることは注目に値する。
 作家の金原ひとみは、6年間在住していたフランスのパリから2018年に帰国した後、日本の中年男性に驚いたことがあったとインタビューで語っている。

 「コンビニのレジで中年のオジさんが店員にぞんざいな言葉を平気で使うのを見てドキッとしました。この人だけかと思ったらまた次の人も…。パリにも粗暴な人はいます。だけど、あくまでアル中などの〝特別な人〟だけですよ」

喜多由浩「【聞きたい。】金原ひとみさん『パリの砂漠、東京の蜃気楼』ある種の視点 身に付けた時間」(「産経ニュース」最終閲覧日:2022年2月4日)

  金原は上記に加え、パリではホームレスから娼婦扱いされる心無い言葉を投げられたことがあったものの、日本では「中年男性の高圧的な態度に驚きました」とし、「普通のおじさんに怒鳴りつけられた時のほうが動揺しました」ともしている(3)。
 このような一見するとごく〝普通〟の中高年男性が、公共の場において粗暴化したり、激昂したりする行動は、近年は社会問題化している。鉄道の駅員への暴力行為、銀行や病院の窓口で大声を張り上げて怒鳴り散らす、小売店の店員に対して暴言を吐く……など、その例は枚挙にいとまがない。そのような〝荒れる〟中高年男性たちをめぐる言説には様々な分析があるが、より希薄になる社会のよるべなさや、先が見えない生き辛さを感じているからこそ、「男」としてプライドを保つべく〈弱者〉と判断した相手に対して粗暴にならざるを得ないと考えられる。
 赤坂は、彼らの生き辛さの根底に潜在するものについて、敗戦によって折れたプライドを修復すべく「黙って死ぬほど」働くことによって〈不在〉となった「父」があるとして、次のように指摘をする。

  しかし考えてみると、現代の日本の男性は、どれほど生きにくいことだろう。父に代表される先行く男性たちは、指針となる物語や行動規範を示さなかった。それは重いかもしれないが、乗り越える対象すら存在しないのは、男にとってもやりにくいことだ。そして先行世代の男たちはただ経済活動に邁進した。息子世代が決して乗り越えられない経済目標だけが、高くできた。
(「第1章 敗戦と父の不在」)

赤坂真理『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書、2020年)

 「父」の不在によって、生きざまの指針を失った「息子」たちは、さらに最早達成することが不可能となった目標を押し付けられている。そのように考えると、日本の「男」たちの弱さと痛み、そしてそのうえでも「男」であり続けなければならないという〝過酷〟な境遇が見えてくるようである。
 近年は、性差から発する〈らしさ〉を問い直す動きが盛んになっている。しかし、『箱の中の天皇』で指摘された敗戦後の「男」への考察や言及は、まだ少ないのが現状であろう。そこを乗り越えなければ、日本におけるジェンダーに関する問題の解決には近づくことさえできないと考えられる。

(了)


【注記】

(1)敗戦後の日米関係を、男女関係における性的な比喩に例えることは多々あり、本文で後述する袖井林次郎の書籍での「強姦ではなく和姦であった」という文章や、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 上』(三浦陽一ほか訳、岩波書店、2004年)には「(日本が―引用者)アメリカ人の征服者たちの、ほとんど肉体の感触を楽しむかのような抱擁に緊縛されて」という一文がある。
(2)当時ドイツの大統領であったR.ヴァイツゼッカーが、ドイツ敗戦40年にあたる1985年に連邦議会で行った「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」のフレーズが高名な演説。なお、演説は『新版 荒れ野の40年』(永井清彦訳・解説、岩波ブックレット、2009年)などで読むことができる(3)「週刊文春」編集部「高圧的な男性、ハラスメントが横行するバラエティ番組……金原ひとみがパリから帰国して感じた〝閉塞感〟――著者は語る『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(金原ひとみ 著)」(「文春オンライン」最終閲覧日:2022年2月4日)