万歳!ここは愛の道

わたしは自分を否定したりそれ以外を否定したり肯定したり状態や気持ちに名前をつけたり境目や隙間を見つけて分類したり、そうやって自分を含めいろいろの存在を捉えてきた。
自分の中にいろんな価値観や倫理観があるということを知っているし自分がそんなに器用じゃないことも知っている。それでもそれで生きてきたしがんばってた。

映像の中のふたりや映像の中に散らばってる物や音、ふたりの状態や関係性は否定も肯定もできなくて、名前もつけられなくて境目も隙間も分からなくて、そこにわたしの存在もいろいろの存在も捉えられなくて、頭痛と吐き気でとにかく自分の存在を確認した。紙とペンを取り出して、とりあえず何か書くことで自分の存在を確認した。
自分の存在を捉えることに必死になってる間も、捉えられないふたりは映像の中で動いたり音を立てたりしていて、わたしはそれに追いつけなくて、置いていかれて、ひとりぼっちだった。
何も教えてくれないまま、何もわたしに与えないまま映像は止んで、わたしは震えている自分の手を見て生きていることを確認した。わたしはわたしの存在を確認しただけで、もうふたりはわたしの前から消えてしまった。映画はわたしを置いて行ってしまった。わたしはまたひとりぼっちになって、ふたりがわたしを置いて行ってしまった事実をただ見つめて、早く立ち上がりたくて、動きたくて、もうふたりが居ないなら早くここから逃げたいと思った。後ろをみて友達が居ることを確認して、わたしはひとりぼっちじゃない、それがその時のわたしの全てだった。

はー終わったやっと終わったって思いたくて、怖かったねしんどかったねもう終わりだねよかったねってしたいのに、わたしの中に断片がずっと残ってて、でもそれに名前はないしみえないしきこえない。自分なのかなんなのかも分からない。ぜんぜん気持ちよくないのに、気持ち悪さが残る自分の心が心地よくて安心して、それもなんかよく分からなくて、今でもふたりのことを考えているよ。
今ふたりは一緒にいなくても、どっちでもいいなと思う。愛の道がどこに向かうとか、どこからきたとか、そんなん、分かるはずなくて、だってわたしはまだふたりを捉えてない。タイトルがあるから愛を想像するけど、わたしはほんとうにわからないよ。たぶん一生分からなくてたぶん一生考え続けてたぶん一生しんどいままだろうな。これがわたしになる。それも悪くないなと思ってる。

わたしは絶対に映像の中のふたりのことは分からなくて、一緒に映画を観た人のことも分からなくて、どれだけ否定しても肯定しても分けても絶対に分からなくて、今まで分けてわかった気でいたいろんなことも、分かってなかったんだなと思い知らされて、不安になっちゃった。ほっちがみんなを好きでいること、みんなは分かってたかな。みんなに愛されてると思ってた、どうなのかな。ぜんぶ分からないし分からないことを悲しんでも仕方ないんだけどね。

わたしが使える言葉で表現するには限りあって、でもどれだけ語彙力があっても映像の中に散らばって切り刻まれて集められなくなった断片はもうそのままどこかに存在し続けるだろうしその存在をわたしに存在させることはできないだろうと思う。それがわたしなりの誠意であり愛なんだと思う。

否定とか肯定とか、こんな言葉しか使えないけど、わたしにとって否定も肯定も否定や肯定じゃないんだと思う。否定して愛することもあるし肯定して憎むこともある。

はやくみんなに会いたいよ。おはなしして夢にしてしまいたい。声に出すと声になった分は夢になって、声にならなかった分が心の中で現実になる。喉と肺のあいだに、粘土のようなものをぎゅっぎゅって押し詰められてる感覚がある。みんなに会いたいよだいすきだよ。

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