なにくそ

何でもスマートに“スッ“とできることが求められ、みんなと協力してものごとにあたる。そして、自分にできることで集団に貢献していく。集団としては求める結果を得ることができているので、問題ないんだと思いますが、長い目で見ると格差が広がっていく原因の一つになるのではないかと思っています。

というのも、私のような怠け者にとってはこの流れは自分のできることだけすればいいわけですから、楽チンなんで快適なような気がするんです。でもこれは新たなことに挑戦し、自分の可能性を広げる場面がなくなり自分では何もできない人間を作っていくような気がしてならないんです。

この傾向は、生きることを人任せにし、上手くいかないことは人のせいにする。「もしも何かあったらアンタらが責任とってくれるんやな」よく耳にすることばにつながっているのではないでしょうか。

ちなみにどうすることが責任をとることになるんでしょう。辞めれば責任とったことになるんですか?お金を払えばいいんですか?どちらにしても納得いかなかった結果は変わりませんよね。誰にも責任なんて取れないんじゃないでしょうか。自分で受け容れていくしかないんですよね。

この人任せから脱却し、どんな結果も受け容れ、より良くしていくために、結果のみにこだわることなく、大人になる必要があります。

畿央大学の島教授の道徳科の授業づくりYouTubeで、お手伝いしていて10枚皿を割ってしまうのとふざけていて3枚皿を割るのとどっちが悪いかたずねると、小学校低学年の子の多くは、10枚と答えると知りました。このように幼い子は結果にしか目がいかず、発達するにしたがって過程も考慮できるようになるようです。

結果しか見えない子供から過程を考慮できる大人になるためには、多様で多岐にわたる過程を経験するしかありません。これがしんどい。しんどいことと向き合うには内発的動機づけ「なにくそ魂」が必要だと思っています。古臭いと言われようと、時代錯誤と言われようと「なにくそ負けるもんか」って思いながら、向かい風に立ち向かう。こうすることで、結果が芳しくなくとも、もがいた者にしか見えないものに気づくことができます。この気づきこそ『寛容』という名の強さにつながると思っています。寛容でないとあらゆる結果を人のせいにせず受け容れたりできないですよね。

子供たちが「なにくそ」と歯を食いしばりながらでないとできないような場面設定を多くしてやりたいと思います。そのためにまずは私が「なにくそ魂」で明日からの仕事がんばります。


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