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いじめについてかんがえた。

子ども達の社会で、いじめって、必ず起こるもの。

そう思ってる。だって、大人の社会にだってあるんだからね?

だから、いかに小さな芽のうちに、もっといえば種のうちに、大人が気づいて、毅然と、強い愛をもって摘み取るか。

今の子ども達は、小さいときから「いじわるしちゃだめ」って教わっている。「いじめをしてはいけません」学校でだって習ってる。

だから「いじめはだめ」って知っている。

それでも、いじめは起こる。

大人からみたら「それはいじめにあたるのか?」と思う事もある。でも。

受けている子が「いやだ」「いじめられてる」と感じれば、それは「いじめ」なんだ。

それも、子ども達は学校で『習って』いる。

小学校で、年に何度か「いじめに関するアンケート」を受けるそうだ。中学校でもあるでしょう。

「あなたは、いじめにあったことがありますか」とか「学級で、学校で目にしたり、聞いたことはありますか」とか。

子ども達は、成長につれて 本当のことなんて書かなくなる。

大人の「期待」に応えるために。『いじめなんてありません』

怒られたくないしね。『いじめなんてありません』


このアンケートに「いじめにあっています」と書くとき。もうそれは、その子にとって「耐えがたい」状況にあるって思っていいんじゃないかな・・・。

「クラスにいじめがあります」って書くとき。「耐えがたい」状況に見えるってことなんじゃないのかな・・・。



このアンケート。

学校独自じゃなくって、教育委員会とか、もっと上からとかくるんでしょう。

「いじめがある」となれば、報告して、報告したら指導があったり、怒られたり(?)もあるんじゃないかなあって想像する。

そうなると、学校は『いじめなんてありません』の結果を望むよね。だって『いじめはいけない』んだもの。

子どもも、大人も 『いじめはゼロでなければならぬ』と思ってる。

でもね、

そんなの幻想。

常に、種は眠っているし

ひそかに芽吹いているかもしれない。

笑顔のあの子が、実は「私はいじめられてる」って感じているかもしれない。


『いじめは起こる』


ゼロなんてありえない。だから。

いじめは、いつでも起こりうる。自分が、加害者にも被害者にもなり得る。

だから「いじめはだめ」と強く教えるよりも、我が子や、身近な子ども達に、「辛いなあ、いやだなあって思うことがあったら、いつでも教えて。だって、私達はあなたのことを大事におもっていて、愛してるからさ。あとね、幸せだなあって思う時も教えてほしいな。」

って伝えていきたい。

そして「いじめはね、大人の社会になっても起こりうる。だから、加害者にも被害者にもならないために、どうしたらいいのかを一緒に考えようよ」

って、伝えたい。

『いじめはね、被害者も加害者も傷つくんだ。だから、そんなの私はあなたに味わって欲しくない』って。


あと。

最近ちょっと思うのは。いじめっていわれる状態になっているとき、もしかしたら、いじめる側の子ども達の「助けて」の合図かもしれないということ。友だちに対して「暴力」で関わる状態って、こころが健康とは言えないもの。

そうそう。そういえば。

昔、うちのファミリーの子が「いじめって、嫌なことを長い期間いわれたりされることを言うんだって。だから、回数が少なかったらいじめって言わないらしいよ」

って言ってたのを思い出した。そういう定義もあるのか! って思ったわ。

1回でも、相手の嫌なことをしたら「ごめんなさい」だし、「いいよ」って言って欲しいなあ。

何度もあって、嫌な気持ちを毎日して「おお、長期間になったから、あなたが受けているのはいじめですね!」

って言われてもなあ・・・。

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