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親くらいは子どもに拳固ををはり、兄弟げんかは取っ組み合いでいい  その1

<長文注意です。でも、読んで欲しいなり~♪>


なんだか、誤解を生むようなタイトルですが。

誤解じゃなくて、ほんとの気持ちです。


川崎の男の子の事件。

どの側面から見るか、だれの目線で見るか、また考えるかで、色々な思考にはまっています。

今回は、加害者側から。まだ全てが見えたわけではないし、憶測が多くをしめますが・・・・。


「親は、もっと子どもに拳固を張っていいし、ぶん殴ったっていい。」

 なんだか怒られそうですね。でも、親にしかできないことです。今は。昔は、いたずらをすればご近所のおっちゃんにだって、大きな声で怒鳴られたし、拳固だってもらった。それをみた母がすっとんできて、おっちゃんに頭を下げる姿をみて、悲しくなって・・・・いたずらを・・・縮小したw

 大家さんちで「両親の帰りを待つ」なんて事もよくあったけれど。大家さんちのおばあちゃんには、箸の上げ下げ、おかわりの仕方も教わった。おこたの入りかただって、教わった。その過程で、手のひらをピシャリ!と叩かれる事もよくあった。いっぱい叱られた、めっちゃ怖いおばあちゃんだった!!! でも、おこたで向かい合わせで座りながら、相撲中継を見るのが大好きだった。

 大人たちは、いろいろな場面において、子どもたちに厳しかった。自分の子、親しい子、見たことある程度の子、見たことない子、どんな子に対しても、「アカンもんはアカン!」と叱り、やりすぎれば「ごんっ!」と拳固だし、「ぴしゃっ!」と手の甲を叩かれる。場合によっちゃ、抱えられておしりを叩かれもした。

 いっぱい怒られたけど、その倍もかわいがられた。

 学校の帰り道、いつも怒鳴ってばっかりのおっかないおっちゃんが、「今、帰りか?家までまだあるな、ちょっと休憩していけ。」と、縁側に呼んでくれておやつをくれたりした。「ちゃんと、おかあちゃんに言うんやぞ」と教えられた。帰ってから、「どこどこのおっちゃんがチョコレートくれた。」と、報告する。そうすると、母は、何かのときにおっちゃんと顔を合わせたら、「お世話になってー」と挨拶とお礼が言えるのだ。そうやって、人と人が繋がっていくのを知るのだ。

 で、おっちゃんに「ちゃんと、おかあちゃんに言うたんやな。ほら、ご褒美やぞー。」と、またお菓子をもらえるわけだw

 まあ、同じように、いたずらしてたら、すぐ親にも伝わるわけですが。


 昔は、そうやって社会の中で子どもたちは、様々な価値観をもった大人たちから、いろいろな事を教わり、また同時に、拳固の痛みや、手を打たれる痛みを知り、自分がひとに手をあげる事があっても、その痛みを知っているから止めたり力加減をしたりできるようになるんだと思う。こんくらいで叩いたら、めちゃ痛い、とかね。小さい子との喧嘩だったら、これ以上はアカンなとか、こいつは大きい子だから、力いっぱいいったれ! とか。

 今は、他人がよそさんの子どもに、たとえ愛がある拳固でも、はっちゃうと色々問題になるので、よほど家族ぐるみで親しくないとできないですが。でも、親ならできるんですよね。子どもの成長と、必要性に応じて、「ここだ。ここしかない」と思ったら、叩くことがあっていいと思う。

 もちろん、冷静に計算できる時じゃないとダメだけどね。

 親でも、逆上してしまうことがあるわけで。



 私は、よく手の甲を「ぴしゃり」と打ちます。

「命に関わることをしたとき」「ひとさんの心と体を傷つけたとき、その可能性があったとき」この2点を決めて、もちろん、親たちにもその事はしっかりと伝えておきます。子どもたちにも、伝えます。そして、そういう事が起きたときは、がっつり叱って、その後は必ず「ぎゅっ」とハグです。手をつないでちょっとお散歩でもいいです。ぬくみを、必ず、分けっこします。

 つまり・・・ハグできる年齢・・・小さい年齢のときに、痛みと共に、命・こころ・体を大切にし、思いやる気持ちに気づいたり、大事にしたりできる子になれるように、心を込めて願いを込めて、叱り、「ぴしゃり」とするのです。もちろん、小さい時なので「ぴしゃり」に大きな痛みは必要ありません。小さな小さな痛みでいいんです。そして抱きしめること。体のぬくみを分け合うこと。ぬくみは、いとも簡単に「愛」を伝達してくれるでしょ?

 小さい年齢ときの子どもたちは、基本、親が大好きです。大人というイキモノを疑うことがないからです。多少強く叱られても、朝起きたらケロリとすることができます。この時期にこそ、たくさんのことを伝えてしまう事が、後を楽にすると思っています。「しかる」と「ぬくみを分け合う」ことをセットすれば、子どもは叱られても、怒鳴られても、拳固されても、朝にはケロリとできるんです。

 なので、やはり「痛い拳固」は、親にしかできません。

 親は、社会から子どもを預かっている、という側面もあります。いずれ、子どもたちは親から離れ、社会へ巣立っていかなくてはならないからです。これは教えたい、という事を、最大の愛をもって、痛い拳固を、子ども時代にしてあげたいと思います。そして、その後はちゃんと抱きしめる。

 親でも、「自分のために」子どもに手を上げたらアカンですよ。もちろん、そこは押さえてください。なんでもかんでも、「気にくわないことをした」「言うことをきかん」からといって、拳固しまくってたら、そこには愛は感じられないし、反発されるだけで、それはただの「暴力」でしかないですからね。「気に食わん=拳固はっていい」っていう学習をしかねません。

 「ここだ。このときしかない」

 そこで愛のある拳固を   ごんっ!!!

 そこに、さらに親の悔し泣きの涙とかつくと、子どもは ぐっと何かを感じることができるんじゃないかな。


 古いですかね?w



 んまあ、もっと極端に言うと、「大人はもっと子どもを叱らなきゃあかん!必要なら、おしりひっぱたいても、拳固はってもいい!」んじゃないのか?! ってこと。

 私が小さかった頃みたいな、よそのおっちゃんに拳固はられて、泣いて帰って、「どうしたの?」て親にきかれて、理由話したら、また拳固はられた! みたいな暮らしが、もしかしたら、子どもたちを、今よりは、もう少し、安らかな気持ちで大人への長い時間を過ごさせてあげることができるのかもしれません。

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