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好きなものから逃げるな

井ノ原快彦が好きだ。何か色を選ぶときには彼のメンカラである緑にするし、コンサート映像はどんなに激しいカメラワークでも目を離さず一挙手一投足を瞼に焼きつけることが出来る。彼の歌割りには他の部分よりも明らかに心が躍るし、初めてライブで生で見たときは感情が高ぶり思わず涙してしまった。たった5分のテレビ出演を彼の瞬き一つ見逃すまいとコマ送りで2時間かけて鑑賞したこともある。中学二年生で虜になってからというものずっと心を寄せ続けてきた。「あさイチ」が終わっても、V6が解散して20th Centuryになっても、いつの間にか社長になっても、そして、スーツ姿で毎日矢面に立っていても。「推し」の気持ちは変わらない。存在だけで日々が磨かれる。

Twitterの「おすすめ」タイムラインは恐ろしいほど私の関心に詳しい。毎日、いや毎分、見たこともないくらいフォーマルな格好をした自担がマイクをもって話す映像が目に飛び込んでくる。擁護する文章も批判する文章も、情報は容赦なく濁流のように流れる。

井ノ原さんがトーンポリシングをした。終始、児童虐待に関する会見における態度ではないと思った。22年の内、9年間も大好きだったアイドルに初めて嫌悪感を覚えた。
でも、やはり、どうしても大好きなのだ。間違ったこと、他者を侵害して成り立っていることだと分かっても、感情はどうにも出来ない。

この狭間に人間を感じた。


ガクヅケ木田のnoteのスクショに関する、ママタルトと大島育宙の揉め事を見た。別にこれ自体に対して何かを言いたいわけではないが、これについて述べている、あるツイートがとても刺さった。

(リンク切れっぽく見えますがタップするとツイートに飛びます)

本当にそう。なんかずっと抱いてきた違和感が晴れる気分がした。
口入屋という夜這いを題材にした落語を考えたときとか、ナイナイ岡村がラジオで炎上したときとか、粗品が言い過ぎてるときとか、なんかおかしいな。と思ったことが晴れた。


「好きなもの」が自分または社会の正義と反する場合にどう折り合いをつけるのか。

 1.「好きなもの」から離れる
 2.  正義を曲げる

1が自らの意志で出来る状況では、むしろ離れ時であると思う。2をする人もいる。萌え絵(?)が好きな友人が「好きなものが楽しめなくなるから、ジェンダー論は趣味と切り離して考えるべきである」と主張していた。
私には1は出来ない。感情なので理由はない。2も出来ない。特に他者や特定の社会属性の人の人権侵害や搾取の上に存在するものを許すことは、こちらも感情が許さない。ではどうするのか。

 3.  煮え切らない気持ちを抱え続ける

これ以外に方法はないのではないか。こういうところがあるけど、でも、好きだ。を抱え続ける。離れられるほど遠くないが、自分を曲げるほど近くもない。むしろ「好きなもの」にはこの距離感で関わるべきだと思う。

好きなものから逃げるな。自分からも逃げるな。
好きなものと自分との狭間で苦しんで、その煮え切らなさを受け入れることが愛だと思う。この不完全さが人間。むしろ、そのコンフリクトを否定するのは思考停止。人間性の否定。

傷つけないお笑いが好きだとか傷つけないお笑いが好きと言っている奴はヌルいとか、お笑い分かってるとか分かってないとか、ポリコレだとかどうとか、そういう低次元な論点でではなくて自分に素直になって、本当は好きなものそれ自体と正義についてどう思っているのか。好きなら好きでいいし嫌いなら嫌いでいいけど、思考停止はしないでいたい。他人の言葉や価値観を使わずに自分の頭で考える。現状に反対するのは難しいし、スカしてインターネットの言葉で話す方が楽なことは分かっているけど、人間らしさから逃げない。

無責任さへの絶望。自分への絶望。でも2の選択肢を取るよりも、不本意に1の選択肢をとり続けることよりも"マシ"だ。マシだからそうするんだ。

井ノ原さんがいつまでもアイドルでありつづけてくれたらいいけど。

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