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連載青春小説『Buffering-errors in the youth』(6/7)

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第六章 海辺にて

 家族の話では、最近のぼくは覇気がなく顔色も悪かったので、倒れたときはそれなりに心配してくれたようだった。結局外傷はこぶ一つで、だいぶ眠れるようにもなって、顔色は良くなってきてたから、あっという間にみんなの気がかりは姉ちゃんの結婚式へと戻り、家は忙しくなっていた。浪人生の弟なんて戦力外だからぼくは気楽なもんだけど。
 みんなは何かとイライラしていて、とくに姉ちゃんは虫の居所が悪いとちょっとしたことでもぼくに腹を立てた。浪人生の弟に回ってくる役目なんかこんなもんだ。だったら完全にほっといてくれればいいのに。
 そういうわけで、おかしくなっているのはみんなの方だと思っていたから、姉ちゃんに「アキオ、大丈夫?」って言われたときは変な感じがして、「おかしいのはそっちじゃん」って言い返そうと思ったんだけど、また怒られそうだからやめて、「何が? 別に大丈夫だけど」とそつなく答えた。
「そお。そうならいいけど。じゃあさ、ちょっと付き合ってよ」
「どこに?」
「ちょっとドライブ。どうせ勉強しないんでしょ」
「失礼だな。頼むときは素直に頼みなよ」
 姉ちゃんは笑いながら「息抜きってことでさ。じゃあちょっと待ってて。手ぶらでいいよ」と言った。
 姉ちゃんは運転が好きで、上手だし、だからときどきドライブに連れて行ってくれたり、付き合わされたりする。でもここしばらくは、受験生だからってことでなかったから、久しぶりに姉ちゃんの運転している姿を見てなんだかうれしくなった。
「ところで、どこに行くの?」
「海」
「え、海? もうクラゲがいっぱいだよ」
「別に泳ぐなんて言ってないでしょ」
「ふーん。ならいいけど」
 姉ちゃんはサングラスをした。傾き始めた陽光がまぶしい。久しぶりに陽光を浴びる気がした。目が慣れるまでは、風景はボールペンでなぞったみたいに輪郭がはっきりしていてうるさく感じたのだけど、次第に落ち着いていった。
 姉ちゃんの運転は、相変わらず上手で心地よかった。二人とも話をせず、ぼくは窓の外を流れる風景を眺め、姉ちゃんは運転しながらカーステレオから流れる音楽に合わせて鼻歌を唄っていた。
 しばらくして渋滞に巻き込まれ、風景の流れが止まったとき、姉ちゃんは唐突にしゃべり出した。
「遠回しに訊くのやだからさあ、単刀直入に言うけど、ちゃんと勉強してんの?」
「してるよ。それなりに」とぼくはぶぜんと答えた。
「ならいいんだけどね。あたしだってこういうの面倒よ。でもまわりが心配してるからさ。一応、姉だから」
 ぼくは何も答えなかった。こういうやりとりに巻き込まれるのは嫌だった。それでも姉ちゃんは続けた。どこか義務的に。
「やっぱりショックだった? 叔父さんが死んだの。アキオ可愛がられてたもんね。好きだったでしょ、叔父さんのこと」
「そりゃあね」
「まったく。ふてくされちゃって」と言って姉ちゃんはクスッと笑った。「なんか、ずっと元気がないように見えたからさ、まだ引きずっているのかなって思って。まあ、いいわよ、別に。ああ、めんどくさ」
 どうせ親に頼まれていやいやなのはわかるけど、無性に腹が立つ。でもぼくが何か言う前に、姉ちゃんが「ほんとのところ、あんたが大学に受かろうが受かるまいがどうでもいいのよね」と言うもんだから、ぼくは吹き出し、姉ちゃんはケラケラと笑った。
「冗談じゃなくて、あたしはあんたの心配なんかしている場合じゃないの」
「ふうん。大変なんだ結婚って。やめちゃえば?」
「何それ。いつからそんな嫌味な感じを身に付けちゃったの。ああ、純粋な心を持った可愛いかった弟はどこに行っちゃったのかしら」
「姉ちゃんの教育のおかげだよ」
 また二人で笑った。

「もうすぐよ、海」と言って姉ちゃんはサングラスを外した。空は曇り始め、日は隠れてしまっていた。
「姉ちゃんこそ大丈夫?」
「何が?」
「マリッジブルーってやつ?」
「はあ、あんたさあ、馬鹿の一つ覚えみたいに……。はしたないからやめな」
「何それ?」
「マリッジブルー、マリッジブルーって、馬鹿の一つ覚えみたいに」
「姉ちゃんに言ったのは初めてだよ。というか、人生でも初めてぐらいに使ったのに」
「世間の話。結婚前の花嫁に向かって言うセリフは他にないのかっていうのよ。世間は馬鹿の一つ覚えみたいに、マリッジブルー、マリッジブルーって、うれしそうに。聞かされる身のことなんか考えずに、とりあえず言ってみたいだけって感じで。安易よ、まったく。うんざり。だから、あんたも気を付けなさいっていうことが言いたかったの」
「ふーん」とぼくはうなずいて、とばっちりだなと思ったけど言わなかった。
「で、何の話だっけ?」
「え、もうどうでもよくなってきたけど……。まあ結婚のこと。式のこととかさっぱりわかんないけど、大変そうだからって思って聞いてみただけ。安易でしょうけど」
「ありがとう。心配してくれてるのね。まだ少しは弟らしい部分が残っていて安心したわ」
「なんだよそれ。そういうところが心配だよ。ぼくは慣れてるから平気だけど。普通怒るんじゃない?」
「大丈夫、彼の前では出さないから」
「それでいいの? それにさ、姉ちゃんは面倒くさがりだし。強情なところもあるし」
「何とかなるわよ、きっと。夫婦がどうあるべきかなんてどうでもいいの。二人にとって、何が必要で、何が必要でないか、必要なものの量や程度はどのくらいで、多すぎないか少なすぎないか。そういうことがちゃんと話し合えるなら大丈夫よ、たぶんね。彼となら大丈夫だと思う」
「へえ。結婚生活もそういうもんなのか」
「ちゃんとわかっていて言ってんの?」
「わかってるよ。ものわかりがいいからね、ぼくは。……なんてまあ正直、姉ちゃんが結婚しようとしまいと、離婚しちゃってもどうでもいいんだけどね」
 姉ちゃんはぼくをチラッと見てにらんだ。
「普通、姉が結婚すると、弟は喜んだりセンチメンタルになったり、複雑な心境ってもんになるんじゃないの」
「何それ。テレビの観過ぎだよ。それを言うなら、姉は受験を控えた弟の将来を心配するんじゃないの」
 ぼくらは笑い合い、なんだかほんとに楽しい気分になって、姉ちゃんも同じ気分のようだった。
 体がわずかにシートに押しつけられるように感じたのは、渋滞が解消し、車が加速したからだった。
 ウィンカーがカッチカッチと鳴る。左にカーブを曲がる。体が遠心力で右に流れる。姉ちゃんの体はハンドルと同じように左に傾く。その力学から解放され、起き上りこぼしみたいにもとに戻ろうとしたとき、風景が一変した。
「ほら見えてきたよ」
 海があった。
「きれいね。……ねえアキオ覚えてる? あたしがまだ免許とりたての頃、一緒に海までドライブしたでしょ。あたしの運転が怖いって嫌がるあんたを無理やり乗せて」
「んん、覚えているような覚えていないような」
「そうしたら、あたしの運転のせいでしょうけど、あんたの顔がみるみる青ざめてきて車で吐いちゃって。結局途中で引き返して。そのことを急に思い出して。だからこれはそのリベンジだったの」

 ジョギングしている人と犬を散歩させている夫婦以外、砂浜に人けはなかった。曇天で、日がどれほど落ちているのかわからなかった。だから、空と海は一面灰色のグラデーションの中にあり、そこに陽光の桃色がほんのりと滲んでいる。地平線はその平面の曖昧な折り返しのように見えた。
 ぼくらは車を降り、砂浜に散った。
 犬がしっぽを振りながら夫婦のもとから駆け出すが見えた。ジョギングしている人は犬を警戒してかわずかに方向を変える。トンビがスッと高度を下げ、再び旋回し始める。ぼくは素足になって波打ち際まで行く。足を海に浸した。どこかに運んで行くかのように、波と砂がくり返しくり返し足をさらっていく、その感じは夜の感触とおんなじだった。足が露わになるたびに、自分の足がまだそこにあるのが不思議に思えた。
「ハッ!」
 突然背後から声がして、背中を押された。すぐに姉ちゃんのいたずらだってわかったんだけど、完全に不意打ちだったから抵抗できずに前につんのめってしまった。

「ごめん。あんなに驚くとは思わなかったからさ。怒んないでよ。ここはおごるから。ほら、ラーメン? チャーハン? ギョウザもつけちゃっていいから。定食もあるよ。あ、冷やし中華まだあるんだ。ね?」
 ぼくらは海岸から少し離れた小さな中華料理屋にいて、向かいに座っている姉ちゃんは油でべとつくテーブルの脇にある、これまた油でべとついていそうなメニューを広げて見せた。
「そりゃ驚くよ。ほんと意味わかんない。あの場面であんなことする意味が」
 ぼくはまくり上げていたチノパンの裾をもとに戻した。膝下あたりまで海水で濡れていた。砂が付着していて、ちょっと手で払うと砂が床に落ちた。
「ああ、もう。どうすんだよ」
 ぼくは砂が店内に落ちないように、再び慎重にチノパンの裾をまくり上げた。
「何にする? 私はどうしようかな。ラーメンか、チャーハンか……」
 テーブルの中央に広げてあるメニューを二人でのぞきこんだ。
「決めた。私は冷やし中華」
「ええ、どうしようかな。冷やし中華もいいんだけどな……」
「じゃあ、あんたも冷やし中華にしなよ。今年の食べおさめ」
 ぼくはそれを聞いて「そっかあ」とぼんやりつぶやいたんだけど、忘れていた焦燥感が戻ってきたようで、内心動揺を感じた。
「いや、でも誰かのせいで足もとから冷えてきたから、ラーメンと半ライス。あとギョウザも」
「アキオにしては結構食べるじゃん」
「普通だよ」
「そお? まあ、とにかく食欲出てきたみたいでよかった」と言って姉ちゃんは微笑むと、後ろを向いて「すいませーん」と店員を呼んだ。その動作の一連を見て、以前に同じようなシーンがあったわけでもなさそうなのに、ぼくは懐かしさのような温かいものを感じて、でも同時に寂しさもやって来て少しばかり感傷的な気持ちになってしまった。
 注文を終えると、妙な間ができてしまったから、ぼくは興味もないのに店内をゆっくりと眺めていると、姉ちゃんもこの間に耐えられないからのように話しかけてきた。
「こんな時期に悪いわね」
「どういうこと?」
「あんたは受験なのに、私の結婚でバタバタしちゃって。ごめんね」
「いいよ。気にしてない」
「で、大学はどうすんの?」
「え?」
「受けるの?」
「そりゃ受けるよ」とぼくは即答したのだけど、語気が強くなったことに自分で驚いた。大学なんてどうでもいい、なんて思えなかった。
「あんたも、損な性格ね。自分で自分を窮屈にして。私も若干そうだけどさ。だからわかるんだけど。そうね。何かにならなきゃなんて考えちゃだめよ。あんたの性格じゃ、そう考えると自分で勝手にレールを敷いちゃうから」
「ああ」とぼくは曖昧に返事して小刻にうなずいたのだけど、それは姉ちゃんの話がほんとはあまり腑に落ちなかったから、話を理解しようと考えている仕草だった。
「ぼくはぼくってこと……」
「うーん、違う。なんていうか……あんたはまだ何者でもないんだから」
 店員がやってきて、冷やし中華、ラーメン、ギョウザ、半ライスをテーブルに置いていった。
 ぼくはテーブルの脇から割り箸を二本取って、一本を姉ちゃんに渡し、「ありがとう」と小さく言った。
「何?」と姉ちゃんは割り箸を受けとって、「こちらこそありがとう」と小さく頭を下げた。
「え、いや。あのー、ほら、おごってくれて」
「気にしなくていいよ。こんなことできるのも最後かもしれないしね。来週には引越しちゃうから。からし取ってくれる」
 ぼくはテーブルの脇にあった小さな白い壺を手渡した。壺の上部や付属の小さいさじにからし色の塊が付着していたから、フタを開けるまでもなく中身がからしだとわかった。
「ありがとう」
 姉ちゃんはたっぷりとからしをすくい、「私がいなくなったら寂しいでしょ」と笑いながら、冷やし中華の皿のふちにからしを盛った。
「お父さん、お母さんをよろしく、なんて言わないから。あんまり好きな言葉じゃないけど、がんばるのよ。でもなんかあったら連絡していいから」と姉ちゃんはさらにもう一度からしをすくって皿にこすり付けた。
「何よ黙っちゃって。やっぱ寂しい?」
「違うよ。からしって、そんなに付けるもんなの?」
「そうよ。アキオは冷やし中華は、からし派じゃないんだっけ。おいしいんだから。ちょっと食べてみなよ。もう今年は食べられないかもしれないんだから」
 姉ちゃんは盛ったからしを箸で取っては麺に絡ませるようにかき回してから、皿をぼくの方に差し出した。おそるおそる口に運ぶ。
「あ、結構いける」とぼくは言ってすぐにもう一口食べてうまいって言おうとしたとき、衝撃が頭を突き抜けた。
「からッ。あああ」
 ぼくは頭を抱え、何度もむせては涙ぐんだ。
「そんなに?」と姉ちゃんは薄ら笑いを浮かべながら一口食べると、「ほんとだあ。からーい。付け過ぎたあ」と眉間に手をあてた。
 ぼくらは互いのそんな姿を見て、目に涙を浮かべながら笑い合い、それはなかなか止まらなかった。

 人間は奇妙なものだ。自ら進んで絶望し、悲しみを求めるときがある。不安定さから逃れる場所が悲劇のときもある。悲劇の方が落ち着く、そんな精神状態になるときがある。散り散りの心を悲しみで麻痺させる。強風で吹き飛ばされそうな心の底に悲しみの重しを沈ませる。胸のざわめきがなくなるのならば悲しみ一色になっても構わない。そう思うようになる。自分がどんなひどい状態になっても、それを正当化し促進するプログラムは働き続けるからだ。そして度を越すと、悲しみの飢餓が待っている。悲しみが足りない、悲しみはどこだ、悲しみを恵んで下さい、ってわけだ。しまいには心の底が抜け、虚無が待っている。
 胸の痛みはまだときどきやってくる。またあの状態になってしまうかもしれない。画期的な対処法があるなら教えてほしい。でもそんな都合のいいものがあるのだろうか。だからとにかく今は、しがみつけられるものなら何でもしがみつこう。
 夏が終わる。入試はもうすぐ。時間はない。


第七章に続く


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