【連載小説】第3話 ひとりぼっちの高校生は少女の面影を見る #創作大賞2024#ファンタジー小説部門
第3話 (約5300字)
体が、鉛のように重い。手足が縛られているみたいにびくともしない。
突然、額に乗っていた重りが無くなる。額に空気があたってひんやりと心地よかった。
重いまぶたを押し上げると、すぐ脇にお祖父さんが座っているのが見えた。視線を感じたのか、お祖父さんはすぐに振り向いて、人懐っこい笑みを浮かべる。
「お、お姫様のお目覚めか」
そういいながら、私の額に白いぬれタオルを置く。冷たくて気持ち良い。そう感じるということは、熱が出ているのだろう。
「昨日、濡れて帰ってからすぐに着替えなかったのが仇となったようだな」
昨日は傘を持っていなかったので、結局濡れたまま帰り軽くタオルで拭いて、そのまま夕飯の支度をしたのだ。それで片付けが終わると、疲れていたので一休みしようと思い、椅子に座って机に突っ伏した。その後の記憶がない。しかし、今寝ているのはいつもの布団の中だ。
「今、何時ですか」
カラカラに乾いた喉から無理やり声を出す。お祖父さんは窓の外に視線を投げる。
「ふむ。まあ八時半といったところか」
「学校!」
飛び上がるようにして起きた私の肩を、お祖父さんはそっと押し戻す。
「ワシを誰だと思うとる。高校へはとっくに連絡しておるわ」
顔を斜めにして顎を引き、器用にウインクしてみせる。おそらくそれが一番男前に見える角度のつもりだろう。
「すみません」
絞り出すようにして答えた私の目の奥を、お祖父さんは薄茶色の瞳で見つめる。
「どうやら喉が痛そうだな。どれ、食欲があればかゆでも食べるか? 卵がゆなら作ってあるが」
「お祖父さんが作ったんですか?」
思わず眉間に皺をよせて訊ねる。
「ワシ以外に誰が作る。従順な小人は我が家にはおらんぞ」
そう言いながら台所へ向かうと、おかゆを入れたお茶碗と、小皿に白菜の浅漬けを盛って帰ってくる。
私は起き上がってお茶碗を受け取ると、レンゲですくって口へ運ぶ。卵のやわらかな味と、ご飯の温かさが喉に心地よかった。喉を通り、胃に落ちていくのを感じる。美味しいおかゆを口に含むたび、心が重くなっていく。
「お料理、お上手なんですね。てっきりできないのかと思っていました」
「料理番組が好きでな。よく見ておるよ。あれは試食ができればもっと最高だな。早よ、次世代のテレビが発明されんかのう」
私は無言でレンゲを動かす。しかし味わえば味わうほど、手を動かすのが辛くなる。
「ごめんなさい。少し、寝させてください」
私はお茶碗を置いて、お祖父さんに背を向けるようにして布団に潜り込む。背中越しにお祖父さんの少し戸惑うような気配を感じる。
「そうか。まあ寝てなさい。それが何よりの養生だ」
お茶碗を下げて、部屋の襖を閉める音が聞こえる。私は体を丸めて、目を強く閉じた。
私は、この日に買ったものをよく覚えている。少しずつ夜が寒くなって、最近ずっと疲れているのか無口になったお父さんに、体の温まるようなものを作ろうと思っていたからだ。お豆腐一丁、牛と豚のひき肉、プチトマト、白ネギ、四分の一の白菜、りんごを一つ、マーボー豆腐の素、牛乳、食パンを一斤、ヨーグルト。
小さめの袋に詰めたせいで、歩くたびに手に白ネギが当たった。買い物袋を右手に、カバンを左手に持って家へと帰る。ゴミ捨て場のそばで立ち話をしている近所の方々が、私の顔を見るとにっこり微笑んで声をかけてくれる。私は挨拶を返しながら、アパートの階段を上り、ドアの前までくると荷物を置いてカバンからカギを取り出す。
私はカギを開ける前と閉めた後には必ずノブをひねる癖があった。カギを構えながらノブをひねると、ドアがすっと開く。
玄関にはお父さんの革靴がそろえてあって、腕時計を見るともうすぐ六時だった。私は、お父さんごめんねもうすぐ作るから、と言いながら玄関で靴を脱いで、大きなビーズで作られたのれんをくぐる。
カーテンは閉まっていて、廊下もキッチンも暗い。私は電気をつけて、テーブルに買い物袋を置く。人の気配の無い冷え切った部屋に、私は身体が震えるのがわかる。
お父さん、と大声で呼びながら寝室やクローゼット、ベランダを探し回って、トイレでようやく見つけた。
トイレの入口のドアに紐が巻かれていて、その紐がドアの上を通って内側へ繋がっている。少しだけ開いたドアの内側に、スーツ姿のお父さんの身体がぶら下がっていた。お父さんはがっくりと頭を垂らしていて、私は叫びながらその足元にすがりついた。
私の悲鳴を聞いて、隣の部屋のおばさんが駆けつけてくれたらしい。泣き叫びその場を離れられずにいる私とお父さんを見つけて、救急車を呼んでくれた。救急隊が到着しお父さんを運び出されるまで、私は泣きながら、どうして、と問い続けていた。
どうして私を置いていくの、と。
電灯の光がぼやけて見える。私は手で涙をぬぐうと、額を冷やしていたタオルで熱を持つ目を冷やす。大きく息を吐き、涙を堪える。
唐突に玄関が開く音がした。
「じーさん! 未紀!」
焦ったような奈那の声だった。私は上半身を起こしたが、お祖父さんが奥から出てきた音を聞き、そのまま息を殺し様子をみることにする。
「なんだ、人の家まで来て騒々しい。ワシと密会するならもう少し目立たないようにするものだ……と思えば男連れか」
私はお祖父さんの言葉を聞き、鼓動が強くなるのを感じる。私は音を立てないようにゆっくりと布団にもぐり込む。
「こいつのことはどうでもいいの。それよりさっき神社の前で女の子がいたんだってば!」
「おぬしが噂の転校生か?」
お祖父さんは奈那を無視して問いかける。
「千石政成といいます」」
「未紀の祖父の御堂仁雅だ」
「御堂?」
「ちょっと、人の話聞いてよ」
千石君の小さく発した言葉を遮るように、奈那が怒ったような声をあげる。少しだけ間を空け、お祖父さんが答える。
「まあ、上がれ」
二人が靴を脱いで上がり、隣の部屋へ通されるのがわかる。お祖父さんは台所へ入りほどなくして帰ってくる。おそらくお茶を入れてきたのだろう。
「それで、女の子がどうとか言っていたな」
コップをテーブルに置く音がする。
「そう、そうなの! さっき神社の前を通たら石段のところに女の子がいたんだって」
「それがどうした」
「赤い和服を着て小学生くらいのちっさい子が一人よ? 迷子かなと思って話しかけても反応無いし、なんか超リアルなARみたいなの!」
「よくわからんが、人ではない、ということか?」
「そう! 触れなかったし!」
「触れない?」
「そう。マジAR」
コップとテーブルが触れる音がする。
「奈那。お前さん、お守りはちゃんと身につけているか?」
「うん。肌身離さず」
そうか、と呟きお祖父さんが沈黙する。
「実は以前俺が通った時も見たことがあって、気になっていたんです。しかしまるでこちらが見えていないように何の反応もなくて」
「おぬしは普段から幽霊のたぐいが視えるのか?」
「いえ、まったく」
お祖父さんは低くうなるような声を出して、言葉を切った。
「ねえ、じーさん。あれって大丈夫なの? なんかヤバいものとかじゃない? お祓いとか要らない?」
奈那の質問に、少し遅れてお祖父さんが返事をする。
「まあその心配はないだろう。石段はすでに神域だ。ちょっとやそっとのものは寄りつけん」
「じゃあ、あの子なんなの? ヤバくなくてもああいうところにじっとしてるってあんま良くないんじゃないの? 成仏できないんじゃない?」
「そういうことは寺に頼め。神主に言うな」
少しだけ間を空けて、お祖父さんは小さく呟く。
「赤い着物の少女、か」
「何か、思い当たることがありますか?」
「さてな。まあなんにせよ、注意はしておこう」
千石君の問いを避けるように、お祖父さんが答える。沈黙の中、お茶の入ったコップをテーブルに置く音が聞こえる。
「それで、白谷未紀さんの具合はいかがですか」
お祖父さんが話題を終わらせようとしているのがわかったのだろう。千石君が話題を変える。
「そうだ! 未紀は大丈夫なの? 風邪なんて引いたことないんじゃない?」
「そうだな。まあ、近いうちに倒れるんじゃないかとは思っておったが」
ひとりごとのように濁した言葉を、奈那が耳ざとく聞き返す。
「ん? 何それ。どういうこと?」
「あやつは溜め込み過ぎるきらいがあってな。暮らし始めた当初に比べればまだ良いものの、一年以上一緒に暮らしているワシに対してもまだ気を遣っておる。高校でも無理している部分はあると思うぞ。理由は知らんが、ここ最近ふさぎ込んでいるようだしな」
「ふうん。じーさんに気を遣うことなんてないと思うんだけどな」
「お前さんはもうちっと気を遣え」
「その、もし聞いてよければですが、白谷さんは高校からお祖父さん、御堂さんとお二人で暮らしている、ということですか?」
少し遠慮がちに千石君が問いかける。お祖父さんが喉の奥で小さく笑う。
「気になるか。何、ワシの娘が白谷へ嫁に行ったんだが、未紀が小さい時に離婚してな。未紀はしばらく父親と暮らしておったが、二年前に父親が亡くなった。白谷の親戚どもはいまいち好かん奴らばかりでな。それで、ワシのところへ来てもらった」
「なんか、家庭の事情とは聞いてたけど、色々複雑みたいね。でもさ、あたしにとってそんなことはどうだっていいのよ。とにかく大事なのは、未紀の具合がどうなのかってこと。明日には復活する?」
お祖父さんは声を立てて笑う。
「そうだな。完治はせんが起きるだろう。他人に迷惑をかけるのを嫌うやつが、そう長く臥せってはおらんよ」
「そっかそっか、りょーかい」
そう言いながら奈那が立ち上がるのがわかる。
「あ、そうだ。じーさん。もし食べるものがなくてひもじかったら、あたしの晩御飯少し分けてあげよっか?」
「ワシゃ野良猫か。心配いらんよ。料理くらいできる」
私は目をきつく閉じて、頭を布団の中に入れた。
お父さんが亡くなってすぐに、私は一人になったことを実感した。
お父さんの故郷からお祖母さんと叔父さんがやってきて、葬式の手続きをしてくれた。お父さんの遺体はすぐに燃やされて、私は遺骨を抱いて電車に乗り、実家へ向かった。
葬式に参列したのは、父方の親戚がほとんどだった。はじめて会うような人ばかりで、誰もが、もうこんなに大きいのね、大変だと思うけど気を落とさないようにね、と声をかけるとすぐに私のそばから離れていった。
私はこのとき中学三年生だ。下手に話しかけて親しくなったら世話を押しつけられる、という大人の心理くらいわかっていた。だから、誰に対してもそれなりの笑顔を作って、ありがとうございます、とだけ答えた。
お父さんの友人という人から、お父さんが半年前にリストラされていたことを、はじめて知らされた。失職していたことはどうでもよかった。ただ、教えてくれなかったことがとても悲しかった。
毎日スーツを着ていつもと同じ時間に家を出ていくことを、自殺するその日まで続けていたのだ。教えてくれれば、何かできることがあったかもしれないのに、お父さんは一人で抱え込んだ。私は、それに気づけなかった。気づかないまま半年が経ち、お父さんは死んだ。一番そばにいて、誰よりもわかっていたつもりになっていた。しかし実際は何の役にも立てていなかったことが、何より悲しかった。
ほんの五分だけ、お母さんがお焼香をしに来た。七歳の時から一度も会ったことは無かったのに、一目でお母さんだとわかった。黒のワンピースに黒の帽子を被って、周囲の冷ややかな視線と陰口に動じることなく、まっすぐ正面を向いて遺骨の前へ進んだ。そしてお焼香を済ませると、何も言わずに出口へと向かった。
私は、とっさに追いかけた。追いかけながら、叫んでいた。
会場の外の誰もいないところまで来ると、お母さんは足を止めて振り返り、私を強く抱きしめた。私は、お父さんの遺体を発見して以来、はじめて泣いたと思う。何を言ったらいいのかわからなくて、ただ、お母さん、と呼びながら声を上げて泣いていた。
お母さんは抱きしめる力を緩め、私の頭を撫で目を合わせると、ごめんね未紀、何もしてあげられないお母さんを許してちょうだい。どうか未紀は幸せになって、と震える口で言い残す。その場に私を置いて、お母さんは駐車場に停まっていた黒い大きな車の後部座席へ乗る。すぐに車のエンジンがかかって葬儀場を出て行った。
私はその場に膝をついて泣いていた。お母さんの腕の感触をもう一度思い出すように、自分の肩を抱いた。まだ十一月の昼なのに、ひどく寒かった。
ふと、肩に黒い上着がかけられる。顔を上げると、羽織を脱いだ母方のお祖父さんが立っていた。目の前にしゃがむと、お母さんと同じ薄茶色の瞳で私をのぞき込む。
「なあ、未紀や。ものは相談だが、ワシと一緒に暮らさんか? 女房にも先立たれて、困っておったところだ。ジジイ一人じゃ、家のことも手が回らなくての。どうだ?」
私はほとんど考える間もなく、お祖父さんの差し出した手を取った。ゴツゴツとした手は温かく、私の手を包むようにそっと握った。
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