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2人のあいだに愛はなかった | 花束みたいな恋をした、を観て最高だった話。

はじめて、映画レビューなるものを書く。書き方は良く分からないけど、せっかくのこの感情を保存しておきたいと思った。

あらすじ的なものはここで伝えるまでもなく、いろいろなところに転がっているので割愛。簡単にだけいうと麦くん(菅田将暉)と絹ちゃん(有村架純)が、2015年から2020年の5年間に渡り、恋をして終えるまでの物語。

花束みたいなこの恋は、いろんな偶然が重なってはじまった。絹のお母さんが絹にトイレットペーパーを買って帰るように頼み、麦のSuicaのチャージ残高が足りず、終電をのがしたビジネスパーソンの男女の目があい、そしておしゃれめなカフェバーの向かいのテーブルに押井守が座っている。どれか一つでも欠けたらきっとこの恋は始まらなかった。

当事者からするとそれは運命なのだろうし、客観的にみたら、「人生なんてこんなもん」。、モテるとかモテないとか、すごいとかすごくないとか、強いとか弱いとかでなくて、「こんなもん」の積み重ねでできていくんだな。

そしてまた、2人の間にヒビが入っていく過程も「こんなもん」。もちろん2人の考え方や大事にしたいものがすれ違っていったということもあるけれど、ゲームをするときに少しだけ音量が大きかったり、つい口から「じゃあ」という前置きがでてきてしまったり、そんなことの積み重ね。

人生なんて「こんなもん」だし。それが最高に美しい。そういうお話。

この2人を語るにあたり、やたらと強調される数々の共通点は外せない。カラオケではセカオワじゃなくきのこ帝国で、本棚のラインナップが一緒で、今村夏子のピクニックを読んで何かを感じるのが当たり前。パッとしない大学生活に突然あらわれた自分とほとんど同じ人間。お互いがお互いを重ね、同一視していく。

同一視の過程は恋と呼ぶのだろうけれど、もしかすると愛ではないのかもしれない。それが後半のストーリーの軸になる。

最初があまりにも共通点だらけだった2人は、相手が変わること、そして自分と異なることがどうしても受け入れられない。恋が同一視の過程だとすれば、愛は異なるものをただそのまま受け入れる過程なのではないか。

この映画をみて麦の変化を好ましく思わない人もきっと多いんだと思う。でもね、数年もたてばやっぱり大切にしたいものは変わると思うの。彼が何度も発する責任という言葉に僕は共感できないけれど、でも目の前にあらわれるミッションに正面から立ち向かう麦は、やっぱりかっこいいと思う。

じゃあ絹はだめかというと、全然そんなことはなくて、彼女は彼女なりに、器用にほどよく人生を生き抜いる。ここぞというときはしっかり勉強して、ちゃんと自分の世界を楽しんで、浮気もするし、職場以外の人間関係をしっかり持っていて、最後には挑戦したいと思う仕事にまで出会ってしまう。絹は頭がいい。

つまり2人とも全然悪くはなくて、むしろすごく素敵に人生を頑張っていて、ただその間に愛がなかったという、言ってみればそれだけのストーリー。

愛は異なるものを受け入れること。絹は麦の仕事への向き合い方を認める気はないし、麦は絹が新しく興味を持った仕事に対して、そんなの遊びじゃんとまで言ってしまう。ああもう最悪なんだけど、でも人間ってそんなもん。異なるものを受け入れるなんてそう簡単にできることじゃない。

花束というのは、もらった時が喜びの1番の絶頂。そのあとは、家に帰って花瓶に挿して、しみじみとして。時々水を変えて少しでも長持ちするようにして。それでもやっぱり枯れるときがきて、枯れたまま置いておくことはどうしてもできなくて、だからたくさんの感謝と一緒に捨てることになる。

この映画がすごいのは、別れ際があまりにも美しいこと。観覧車に乗って、思い出話をして、しっかり話し合って。それから家をでるまでの3ヶ月を大切に暮らす。なんでこんなにハッピーな空気で生活できたのかは分からないですが、2人の中には花束を捨ててしまうときのような、大きな感謝があったんだろうなと想像する。

2人が別れてからの世界では、コロナが流行することになる。麦の会社は物流なのでもっと忙しくなるのかなぁ。絹はイベント系だから会社自体はきつそうだけど、絹は頭がいいからきっとなんとかなるだろうなぁ。と、映画のあとの妄想も尽きない、、続編が見たいなぁ。

その恋は、花束みたいにきれいだった。
もうこの部屋にはないけれど、
あの日もらったこときっと忘れないと思う。

よきでした。

↓つづき。

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