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あの時、大久保利通が麦酒を飲んでいたら、西郷隆盛は生きていた!? (歴史小説風)

あの時、あの場所をご理解いただく為に、日本の麦酒歴史をご鑑賞いただき、その後にお読みになることをおすすめします。(約50分)

映画をご覧になられたテイで進めます
史実を少し織り込みながらの小説仕立てです

箱館戦争

黒田清隆は、旧幕府軍を指揮していた榎本武揚を高く買っていました。

榎本武揚は大変優秀である。この戦いで失う訳にはいかない!

黒田の部下である村橋久成は、箱館病院を訪ねます。医院長は「高松凌雲」
徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜」に使えていた医者です。

敵味方の区別なく負傷者を救うのがお仕事だと伺いました。旧幕府軍が戦うことなく五稜郭を明け渡してくれるのならば、多くの命が助かります。

高松は榎本に手紙を書きました。しかし、榎本の返事はこうでした

徳川ゆかりの者の統治が許されないのならば、城を枕に討ち死にを選ぶ

万国海律全書

榎本の返信には、「万国海律全書」が添えられており、黒田に届けるようにと書かれていました。万国海律全書は、海の国際法と外交に関して榎本が自ら聞き書き写した本です。榎本はこの本を肌身離さず持ち歩いていました。しかし戦火で焼失することを恐れ黒田に託したのです。黒田はこう感じます

やはり榎本は大変優秀な男、日本の明日を考える事が出来る器である

酒と鮪

黒田は、万国海律全書のお礼として、酒5樽、鮪5本を届けます。

それに対して、榎本は「一時休戦」を申し入れます。
その後、自決を仲間に阻止された榎本は仲間の命を助ける事を条件に降伏します。

送られた酒が、頑(かたくな)に幕府の存続を願った榎本の気持ちをほぐしたのでしょうか。もしこの時代に「国産の麦酒」があったなら、もっと早くに解決していたに違いありません。

獄中の榎本を助けるために、黒田は丸坊主になり訴えます。
明治政府より万国海律全書の翻訳を依頼された福沢諭吉は、

この本は、榎本の議事録であることから榎本自らでなければ翻訳不可能

と榎本の助命を求めるのです。
福沢諭吉は著書「西洋衣食住」の中でこう書き記しています

「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。

※「胸膈を開く」とは「胸の内を明かす」の意で、つまり諭吉は、ビールが談論風発にふさわしい酒だと考えていたようだ。晩年の彼の自宅には常にビールが用意されており、知人が来ると大びんのビールが出されたという。ビールを片手に、議論に花を咲かせたのだろう。(キリンビールより)

その後榎本は特別に罪をゆるされ、明治政府で活躍します。
榎本が中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金のため「徳川育英会」を設立し、この会を母体に農業科、商業科、普通科の3科を有する「育英黌」を設立します。※黌とは、まなびや/学校などの意味

醸造学科

育英黌の農業科は、のちの東京農業大学です。東京農大には「醸造学科」があり、日本の酒(もちろん麦酒も)を学ぶ大切な場所を作るのです。

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国産ビールで乾杯する榎本と黒田

明治10年、麦酒が出来上がります

中川清兵衛と村橋久成らの尽力で出来上がった日本人初の「麦酒」。
瓶ビール20ダース、樽9本が氷と共に小樽港を出港しました。
最初の麦酒は政界首脳に届けられます。中川のたっての願いでドイツにいた時にお世話になった青木周蔵にも届けられることになりました。

東京から京都に転送

東京に到着したビールは、それぞれ政府関係者の自宅に届けられました。
時の内務卿大久保利通は東京には居ませんでした。大久保利通と黒田清隆は京都にいたのです。京都にいる大久保に届ける為に再度氷を詰め、蓋のコルクを締め直します。

鹿児島に私学校を設立

麦酒が京都へと転送される4年前の1873年に起きた「明治六年の政変」により鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、多くの不満を持つ士族たちの矛先を変える為に「私学校」を鹿児島各地に設立します。陸軍の士官養成を目的とする学校ですが、これは政府に反乱するための準備ではなく、その逆の士族たちによる新政府への反乱を防ぐためだったのです。

しかし、この学校での主な教科は「銃と砲撃」に関する事。軍事的な色合いの強い内容でした。西郷自身は、学校の運営にはあまり関与せず、後進に任せていたため、やがて学生の多くは西郷の思いとは裏腹に反政府的な色合いを濃くしていったのです。

視察

私学校は、鹿児島での勢力を強めて行きます。明治政府はこのことに危機感を覚え、政府の大久保利通も、盟友である西郷隆盛をこれ以上黙認することが出来なくなりました。そこで薩摩出身の警察官を帰省という名目で鹿児島に送ります。目的は西郷と私学校を偵察するための「視察」です。あくまでも穏便に大久保は事態を収拾したかったのです。
西郷隆盛いや私学校の動きを鎮圧する「指揮」の為に大久保と黒田は京都にいたのです。

弾薬庫を襲撃

時を同じくして、明治政府が鹿児島にある陸軍の火薬庫から武器弾薬を接収し、それに対抗する形で私学校の生徒達が政府の弾薬庫を襲撃し、新政府から秘密裏に送り込まれていた密偵を捉え拷問にかけてしまいます。

密偵は拷問に耐えかねて目的を自白してしまいます

西郷隆盛の しさつ が目的である

新政府の密偵は「視察」と語ったのです。大久保の穏便に終わらせたいとう意図を込めて…しかし私学校の生徒たちはこう聞き取ってしまいました

西郷隆盛の 刺殺 が目的である

目的を聞き間違えた私学校の生徒達の怒りは最高点に達してしまいます。すぐさま西郷隆盛にこのことを伝えます。西郷は盟友である大久保利通を最後まで信じる決意をしていました。自分を盾にしてでも、私学校の生徒達を思いとどまらせようと。

しかし、彼らは自己の利益や大義名分で動いているのではありません。西郷隆盛の為に動いているのです。さすがの西郷も最後の1歩を踏み出すことになるのです。

白金坂

西郷は戦いの準備のために部下と白金坂を下り重富郷に向かいます。向かったのは川田醸造店です。西郷はこの蔵の創業者和助どんの造る「和助焼酎」を晩酌に飲むのが楽しみでした。蔵の焼酎を全部買い上げます。もちろん飲むためではなく、戦の怪我の消毒用です。

神戸葺合村(ふきあいむら)

西郷隆盛決起を知らせる伝令が京都に向かいます。その途中神戸の葺合村に到着しました。次の伝令に繋ぐためです。息が上がり、言葉をまともに話すことができません。竹筒から水を一口飲み込みました。ようやく絞り出すような声で伝令を伝えます。他のモノがわからないように古い薩摩弁です。薩摩弁が聞き取りにくいのは、他藩から秘密を守る為なのです。それを聞くともなく聞いてしまった男が居ました。彼は薩摩弁を聞き取れたのです。

京都御所

主のいない御所の敷地にある新政府の執務室。江戸から明治への激動の時間を大久保と西郷が過ごした場所です。大久保はこの場所で西郷決起の知らせを聞きます。万時休す。もうこれ以上西郷を守り抜くことはできません。下知を今か今かと待つ薩摩薩長の面々。大久保が言葉を発しようとしたその時です。その言葉を開拓使長官黒田清隆が制します。

開拓使より大切なモノが届いております。いますぐご確認ください

大久保は部屋に戻ります。そこに黒田が木箱をもって入ってきます。

開拓使麦酒

小樽から運ばれた日本人初の麦酒は、東京から京都へと運ばれたのです。黒田は黙々と書類に目を通す大久保の前に麦酒を1本差し出します。大久保はこの麦酒を心待ちにしていたはずです。

黒田は大久保の気持ちを察し、細い鉄の紐をほどくと同時に瓶のふたをしていたコルクが飛び、まるで種子島の発砲のような音が響きます。この音は運よく隣の部屋までは聞こえなかったようです。

黒田は瓶の中の液体を吹きこぼれる白い泡と共にギヤマングラスに注ぎました。大久保はしばしグラスを眺めた後、手に取り一息に飲み干しました。

黒田は大久保の肩が少し下がるのを見逃しませんでした。黒田は空になったギヤマングラスにもう一度なみなみと麦酒を注ぎました。それを大久保は再び一息で飲み干した後…どれくらいの時間が流れたでしょうか。大久保が語り始めます。しかしその眼は、黒田ではなく桜島を見ていました。

おはんの生と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が

黒田はすべてを察し自室に戻ります。さて、どうするものかと木箱に入った残りの麦酒を眺めている時です。男が部屋を訪ねてきました。薄汚れた身なりのその男は、なぜか門前払いをくらうこともなく御所に入れたのです。黒田は笑いながら

そうか今日の門番は薩摩やったな

黒田はその男に大久保の真意と麦酒2本を託します。しかし麦酒を冷やす氷はもうありません。そこで男は大八車に四斗樽を縛り付け、井戸から京都の冷たい水を汲みだし樽を満たしました。その樽の中に麦酒を沈め、堺に向かいました。そこから船に乗りある場所に向かいます。

いちき串木野

男が向かったのは、もちろん鹿児島です。瀬戸内海を抜け、鹿児島へ向かう途中、港に着くたびに食事をとる時間を惜しんで、港の井戸から水を汲みだし樽の水を入れ替えるのです。ようやく明日は鹿児島に到着するという晩。嵐が男の船を襲います。嵐を避けようと岸壁に向かい上陸した場所がいちき串木野でした。男は思い出します。この場所より、五代友厚らと共に19名で英国に密航したことを…

男はこのまま海路を行くよりも陸路のほうが鹿児島に近いことを知っていました。嵐の風の中、人夫を手配し大八車で鹿児島を目指します。

加治木島津家

そのころ西郷は加治木島津家で戦の準備を進めていました。気の重い作業を誰にも悟られることなく粛々と。
男は西郷の居場所をなぜか知っていました。男は島津家の門の前に大八車をとめました。その姿は長旅のせいか誰が見ても乞食のようです。門番の1人が追い払おうとしたその時です。島津家の元家老が通りかかりました。

おかえりなさいませ。 門を開けよ

男は風呂に入り、身支度を整え持参した麦酒を持ち、西郷の前に現れました。男は昔、島津斉彬より賜った「薩摩切子」と麦酒を西郷の前に置きました。西郷はだまってコルクを外し、目の前にあった湯呑に麦酒を満たし飲み干しました。それを瓶が空になるまで何度も繰り返しました。

その時です、大きな爆発音が響き渡りました。

しかし、誰も動こうとはしません。この爆発音は鹿児島では日常です。そうです桜島が噴火したのです。この噴火は、西郷の心の中に封じ込め墓場までもっていくと決めていた大久保への思いだったのかもしれません。

西郷は大きく息を吐き、薩摩切子の箱になにか文字を書き上げると、戦の準備をすすめている私学校の同志たちの元へと向かいました。その背中は、広く、力強くもあり、そして優しいものでした。

男は黙って西郷の背中を見送りました。その男の名前は村橋久成。ここ加治木島津家の出身です。村橋は薩摩切子の箱を手にしました。そこに書かれていたのが…

敬天愛人

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参考資料

「大久保利通が麦酒を飲めていたら西郷隆盛の命が助かった」と仮説を話してくださったビアジャーナリストの楯勇作さん⇩


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