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必要なものだけ

小説
テーマ『ミニマリズム』

 座卓の上の料理は大方食べられ尽くされ、か細く残ったフライドポテトも目の前に座っている田辺君の箸によって掬い上げられて、ケチャップの小皿を経由し彼の口元へと吸い込まれていった。フライドポテトを咀嚼しながら、彼は海外のマイナーな映画監督についての賛辞を私に向けてアルコールのせいで怪しくなった呂律で言っていた。私はその映画監督の名前すら知らなかったし、彼の話には特段の興味も持てなかったので、あからさまな作り笑顔で相槌を打ちながら、彼の口元にかすかについたケチャップを眺めて、彼がそれをいつ拭うのか考えていた。
 田辺君の肩越しに座敷の様子が見えた。映画研究サークルの飲み会はつつながなく進行し、まもなく終わりを迎えようとしている。メンバーはそれぞれの島に分かれて、それぞれの会話に熱中していた。向こうの島で澤田先輩が他の部員に囲まれ、ビールを片手に談笑している。彼はワイシャツ姿で、先ほどまでリクルートスーツを着ていてネクタイもつけていたけれど、飲み会がはじまってすぐに今の身軽な姿へとなっていた。他にも日中に就活をしてそのまま出席した先輩が数名いる。
「三崎さん、聞いてる?」と田辺君が言った。私が彼の後ろばかりに視線をやっていたから、訝しんでいるようだ。
「聞いてるよ」と私は笑顔で返した。本当は何ひとつとして聞いてなどいない。
 ならいいけど、と彼はまた話しはじめる。きっと彼にとって私に彼の語る名も知らぬ映画監督の良さが伝わることなどはどうでもよくて、ただ語るだけ語ればそれだけで彼は満足するのだろう。うんざりするけれど、それを顔には出さずに口角に力を入れてあげておく。

 退席時間となって全員で居酒屋の外まで出ると、歩道はメンバーで埋め尽くされた。スーツ姿の中年男性が眉をひそめて、車道にはみ出して通っていく。
 すっかり出来上がった部長がふらふらと体を揺らしながら、何やら解散の旨を大きな声で言っている。けれどもその言葉にはいまいちまとまりがなくて、どこを区切りにして解散していいのかわからず、私は隣にいた後輩と顔を見合わせて笑った。
 別れの挨拶をして、それぞれ帰る方向が同じ人と連れ立って帰路に着く。まずある程度の集団で駅に行き、それぞれの方面へのプラットフォームに分かれる。そうして列車が止まるたびに段々と人数が減っていく。最寄り駅に着く頃には私は澤田先輩とふたりきりになった。私と澤田先輩は最寄り駅が同じだから、サークルの飲み会のあとにはこうしてふたりで肩を並べて歩くことが多かった。
「今日の店よかったね」と先輩は言った。私は店について何の印象も抱いていなかった。私は「よかったですよね」と返した。ほんの少しだけ声を張り上げて、心の底から賛同しているふうを装っていた。
 先輩はあの料理が美味しかった、ドリンクの提供が早かった、店員の接客態度が素晴らしかった、とあらゆる角度から店のことを褒めている。先輩が言葉を話すたびに、私は愛想のいい相槌を打った。私はそのすべてに気がつかなくて、先輩から言われてはじめて確かにそう言われたらそうだったかもな、と思った。物事の良い点にすぐに気がつくことができるというのは先輩の美点だ。
 急に先輩が立ち止まり、胸元に手をあて、そのあとにポケットに手を入れて、何かを探っていた。
「どうしたんですか?」
「ネクタイピン、忘れてきたかも」
 先輩の胸元を見ると先ほどの大袈裟な動作のためかネクタイがかすかに揺れていた。
「戻りますか?」
「いや、いい。どうせ安物だし」と先輩はまた歩きはじめた。私は少しだけ早足で歩き、先輩の横に並んだ。
「先輩って結構抜けてますね。意外といろんなものなくしてますよね」
「でもリップクリームとかミンティアとか、そういう小さいやつしかなくさないからね。財布とかスマホなんかのクリティカルなやつをなくしてないだけマシじゃない?」
 先輩は得意げな顔をしていて、その表情で一瞬騙されそうになる。
「かろうじてマシって感じですね。全然ダメなほうですよ」
 先輩は何がおかしいのか大きな声を立てて笑った。つられて私も笑う。まだ私たちのなかにはアルコールが残っているし、夜の熱気はまだまだ冷めてなどいなかった。
「三崎さんはしっかりしてそうだね」と先輩は言った。そして何かを思い出したように付け加えた。「そういえば三崎さんってミニマリストなんだって? ついさっき他の子に聞いたんだけど。部屋に何もなくてびっくりしたって」
 先日、サークル内の同期が数名私の家にきたことがあった。きっとそのなかのひとりが先輩に教えたのだろう。
「そういうのじゃないですよ。ただ必要なものしか持っていたくないってだけです」
「なんかそういう言い方もミニマリストっぽい」と先輩は笑った。
 睨もうと思って先輩に目をやると、よく見たら右足をかばうような変な歩き方をしていることに気がついた。
「足、どうしたんですか?」と私が聞くと、先輩はぎくりとした表情を見せた。それは何か大切なことを隠している子供が秘密を暴かれたときのような顔だった。
「慣れない革靴で、靴擦れしちゃってさ」先輩は恥ずかしそうに言った。
「私の家、寄っていきますか? 絆創膏ありますよ」
「絆創膏はあるんだ」
「必要ですから」

 私の家に着いて、電気をつけると先輩は小さな声で「おお」と言った。
「やっぱりミニマリストじゃん」と先輩は言った。私が口を開こうとしたら「必要なものだけ持ってる、だったね」と加えたから何も言えなくなった。
 私のワンルームには、まず清潔を心がけているベッドが一台置いてある。そして一脚の椅子と小さなテーブルがひとつ。あとは縦に二段のキャビネットがあるだけだった。台所にはちゃんと冷蔵庫もあるし、洗面所には洗濯機もある。衣服は備え付けのクローゼットに収まる分しか持っていない。調度品はすべて白で統一していて、我ながら見ていて気持ちが良かった。何ひとつ過不足のない生活がここにある。
「テレビもないんだ」と先輩は部屋を見回しながら言った。しかしすぐに見るものがなくなったようで、手持ち無沙汰のように立ち尽くしていたので、一脚しかない椅子をうながした。
「映画だってパソコンで見れますしね。本もスマホで読めます」と私は言いながら、キャビネットの上段を開けて、絆創膏を取り出した。
「まあ、確かにそれもそうか」
 先輩は絆創膏を受け取って、ソックスを脱いだ。かかとが擦れているようでほのかに赤くなっている。先輩は絆創膏をめくり、その箇所に優しく貼った。
「いやあ、助かったよ。まだ結構歩くからさ」
「これぐらいどうってことないです」
 ソックスを履き終えた先輩は、部屋のなかをまたぐるりと観察した。
「こんなにものが少なくて不便じゃないの?」
「全然不便じゃないです」と私は言った。「そもそもみんないらないものを持ちすぎなだけだと思うんですよね」
「そうかな。俺の部屋は結構ごちゃごちゃしてるけど、全部必要な気がするなあ」
「でも使ってないものも多いですよね。そういうのって手放すべきだと思うんですよ」
「いずれ使うかもしれないし」
「使わないかもしれない」と私は言い返す。
 先輩は少し考え込んで、はっと何かに気づいてあたりを見まわした。
「そういえば、三崎さん、半年ぐらい前にサークルの飲み会の出し物で映画のポスター当たらなかった? あれ確か三崎さんが好きって言ってた映画だったよね。結構レアなやつ。あれはどこに?」と先輩は聞いた。
「他の人にあげました」
「必要じゃないから?」
「必要じゃないからです」

 先輩が絆創膏の礼を言って帰宅すると、私は鞄からネクタイピンを取り出した。そしてキャビネットの下段をあける。その引き出しのなかはリップスティックやミンティア、ボールペンにブックカバーなどの雑多なものであふれていた。そこにネクタイピンを一緒に仕舞う。
 私しかいない部屋を見回す。ベッドが一台に、一脚の椅子と小さなテーブル。そしてキャビネット。それだけしかない。
 私はミニマリストではない。必要なものだけしか持っていたくないだけだ。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma

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