見出し画像

The Citadelをプレイしろ。

静止を無視して過度の私刑を行う主人公を眺めるとき、すでに倒れているNPCに何度も鈍器を振り下ろすとき、返り血で汚れたプレイアブルキャラクターにカタルシスを感じるとき、俺たちは何を考えているのか。

90年代のシューティングをプレイするような年齢ではないのでこのゲームのルーツを理解しているとは言えないが、それでもThe Citadelは記憶に残る良ゲーだった。

レトロ風だが現代化されたゲームなのでプレイに際してのストレス(セーブデータ、UI、操作関連)はほぼない。DOOMライクでありながら、リーンがあり、キックがあり、ジャムがある。武器の多彩さからなる戦闘スタイルの多様性は見事で、シングルプレイシューター好きにはぜひおすすめしたい。

と言いたいところではあるのだけれど、このゲームの最も評価すべき点はゴア表現にある。
無骨な敵キャラクターを倒すとその死体がバラバラになって残るが、そこでプレイヤーは敵キャラクターも少女であることを知ることができる。激しい戦闘の後、フロアには美少女の残骸が散らばる。一般的な性癖ではないことは重々承知しているが、この事実でプレイが加速したということを隠す気はない。ホラーゲームで自キャラが死ぬムービーを一目見ておかなくてはならないという使命感にかられわざと即死トラップに飛び込むのと同じように、敵対NPCのゴア表現パターンを網羅するために無意味な死体殴りに奔走したことも書いておく。あなたがプレイした時に、この行為を恥じないように。

ザコNPCは無骨な兵士といった風体なのとは対照的に、各フロアのボスはある種の神聖さを持ち合わせていて、これはストーリーをなぞっていくと納得できるものではあるんだけれど、プレイに際しての緊張感を生み出す要素としてうまく働いていると感じた。

とりあえずプレイして、クリアしてから構成の考察に入るのが良いタイプのゲームだった。


ソロプレイ専用のビデオゲームにおいての(インタラクティブなゴア表現をすべて楽しむための)死体殴りは、アダルトビデオを見るとかそういう行為よりも後ろめたく、誰かに邪魔されずこっそりと楽しみたいものであるという認識はあって、さてこれは排斥されるべき暴力的な性癖なのか、はたまたそのゲームを気に入ったが故の、やりこみの延長としてとらえてよいものなのか自分を納得させる答えが出せずにいる。興奮はするが、それは性的興奮ではない気がするから。

暴力的なシーンを前にした際、必ずしも「最高!」となるわけではない。気分が悪くなる時もある。その日のメンタルは無関係ではないが、どうやら傾向がある。どうやらぽっと出の登場人物が理由もなく臓腑をぶちまける、いわゆるスプラッターというジャンルには興味がない。テキサスチェーンソーは不愉快な作品だ。一方、Citadel、Hotline Miami等のゲームでゲームクリアに関係のない処刑演出は好ましく受け入れられる。この違いはいったい何なのか考える。こうすることで、自分の好みを正しく言語化して、より良いものに出会えるとよいな。

まず、暴力およびゴア表現には説得力がなければならない。説得力があれば感情移入ができる。感情移入した側(主人公またはプレイアブルキャラクター)が手を下すのが良いのだとわかる。この場合の説得力とは、単に長時間のプレイ、視聴そのものが当てはまる場合すらある。思わず目をそらしてしまうような暴力シーンと、なぜか見入ってしまうそれの違いは感情移入の有無にあると感じる。一般的にユーザーが感情移入する"主人公"が一方的な暴力にさらされる場合と、その逆が良い例で、結局のところキャラクターを介しているだけで自分が暴力の被害にあう側か、そうでないかという結論に帰着する。つまりテキサスチェーンソーも、レザーフェイス側のストーリーを深堀りして感情移入できるような構成であれば問題なく視聴できるということになる。

一方、いわゆる自キャラ死亡シーンにもどうしようもない魅力を感じる瞬間は存在する。ゴア規制の薄い北米版バイオハザード4や、The last of usにおいての死亡シーンはなぜか見入ってしまう魅力がある。これについて考えたときにたどり着いた一つの結論として、暴力は過程であり死は結果という違いがあるという点で、痛めつけられている過程はストレスがあるものの、それから解放される死の瞬間にはある種の解放感やカタルシスが含まれているということだ。派手に死ぬのは気持ちがいい。やっぱり、死は救済なのかも...

自分の好みとしっかり向き合ったのは実は初めてで、「血は苦手だと思っているんだけど、そうではない時がある」「ただグロいだけのものは違うかも」ぐらいの認識だったけど、文字に起こすことで気づくものもある、という気づきがあって良かった。

つまり他人をボコボコにしたり、人間性を踏みにじって搾取したりするのは最高だが、自分がそれにさらされるのは無理、と言うことになる。でも、死ぬのはありよりのあり。みたいな。終わっている。特殊でもなんでもない。

暴力が好きな理由なんてものはどうでもよくて、理由は、そもそもみんな好きだから。原液である「実在する人間や動物相手に対するそれ」を希釈して、解像度を下げてみんな楽しんでいるように、俺には見える。誰であれ何かに攻撃的になる瞬間と言うものはあって、それが分かりやすく洋ゲーだったり斧投げバーだったりするだけだと思う。どういった割合のものを好むかはその人の好み。全人類(クソデカ主語)が濃度の差はあれどバイオレンスと言う酒で日々酩酊し、たまたま俺たちはちょっと濃いハイボールくらいのそれが好きだという話だった。
結局は程度の問題なんだという一般的な着地点を見つけたところで、終わりにします。お疲れさまでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?