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【ネタバレ有り】シン・エヴァンゲリオン劇場版感想 旧劇場版(End of Evangelion)に心囚われていた俺は涙した

喋った:

観てすぐ語るべきとも思ったんですが、何というか自分の中で受け止め切れない、
一言で言えば”喰らった”物があって、ここ数日ウダウダしてたんですが、
やっと自分の中で薄れて来たので、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||、この最後の記号なんて読めばいいんだ、
この感想をちょっと言っておきたいな、と思います。
まだ1回しか観てないですし、こんなビッグワード、youtubeの再生数も伸びまいってのも分かるんですが、
一旦吐き出しておかないと、とても落ち着かない心境があるので。

えー、映画全体として飾るなら、『全てのエヴァの終わりに』『懐古ではなく、今の監督の最新で向き合った』
作品だなぁと。
それだけに興行的には絶対2時間弱くらいに収めた方が良いと思うんですが、
結局2時間30分とかになっちゃったという、そこまで真摯に向き合った作品だなと思いました。
正直、Qを観て、で次回作で終わるって聞いた頃は、
「絶対終わらないよこんなモン。いきなり14年とか一気に時が飛んだ訳だし」
「絶対訳分かんないグチャグチャとか、含みを残して放り出すんでしょ」
とか思ってたんですが、それが本当に終わったという。
あのエヴァが終わった。
95年のTV放送より続くエヴァが、俺が追って来たエヴァが、完膚なきまでに。
もうちょっと余地を残しておいてくれても良いだろ、ってくらいに終わった。

ポスターにもあるメッセージ、”さようなら全てのエヴァンゲリオン”ってのはまさにそうで、
例えば近年になって6号機? 7号機? とか増えてきて、あれはパチンコ由来からなのかなぁと思ってるんですが、
なんか商業展開したさ故に勝手に魔改造したよーなナンバリングを増やしていて、
なんかドラゴンボール超的な、
正直そういうのは知らん知らん、萎える、
だって正史たるフィルムに登場してないもん、と個人的には思ってたんですね。

で、今回の映画では、それがまさしく本当に使い倒す様に、ボコボコに薙ぎ払われていくという。
マリの8+9+10+11号機……なんて明らかにやけくそさを感じるセリフだとかね、
あまつさえ、エヴァインフィニティーとか言ったりしてね。
まさにこれは心を汲んだというか、そういう商業展開を暗示した一つの終わり方だと感じたんですね。
まぁエヴァインフィニティーの説明の時に、虚数的に存在していないエヴァみたいな説明をしていて、
あこれ、この設定、スピンオフとかで作れるようにしてるなってのは、
庵野監督の社長ぽい側面が窺えましたが。
ともかくそういう薙ぎ倒すような表現を、
今のCGを織り込んだ技術でやる、その表現は、
かつてのエヴァとも比べて凄みが無いみたいな事もあるかと思うんですが、
ともあれ、あれはCGを織り込まないと絶対出来なかっただろう表現で。

冒頭の、使徒をやたらと連結さして編隊を組ましてムリヤリ動かすとかも、
破の爽快な流れを組む様で好きなんですが、
そういうパチンコだったり、あるいはそれも楽しみの一つかとは思うんですが、どうも”浅い”気がして
個人的に好きじゃない、「設定にこだわる人」の為に、Qの反省からか、
きちんとガチガチに説明して、長くなっても多少説明口調になっても、ガチガチに説明して。
そういう方向の需要も叶えていた。
これも一つのエヴァの終わりですね。

あとカップル厨っていうのかな、
ちゃんとカップル的な結論も出してるんですよね、
我々は、さんざん綾波かアスカか、青か赤かなんてかつて揉めて来た訳ですが、
それをあざ笑うように、最後には言っちゃあ悪いが、
ポッと出のヒロイン、マリと一緒になるっていう。

あれは”ポッと出でないと”いけなかった気もします。
アスカでもダメ、綾波でもダメ、それだと物語が続いちゃう。
別に一人でもええやろとは思うんですが、
そうでもない所に”現在”の庵野監督の心境が現れていて、これは後に語りますがシームレスな繋がりを感じる所なんですが、
それでこそエンディングを飾れるでしょう、終われるでしょうっていう。

本当にこの辺りはきっちりと描写していて、でも最後にはやっぱりというか、突き放しているんですよね。
監督らしいというか。
アスカなんか「あんたの事も、昔はちょっと好きだったのかも知れない」とまで言わせて、
まさにそれはあった過去の否定、TVアニメ版の頃からの期待の否定、
それがまさしく14年経った女性の様で……、で、ケンケンですよね。決定的だろっていう。
そこまで折るかっていう。

個人的には綾波派なんですが、あの黒波にも「シンジの事を好きになるようインプットされてる」
みたいな注釈付きで。
恐らくこれ、惣流の方のコピーである式波もそうで、だからあんまり黒波と関わらない様にしている様に見える
式波が唯一、その事だけは黒波に言うのかなあとか、
それを知った時、そしてその後にケンケンと恋するまでは、葛藤とか色々あったんだろうなあとか。
その辺も想像するとグッと来ますね。

そして破の最後で救い出されただろう綾波なのかな、これが使い倒されていて……
思えば今までエヴァという作品はさんざん綾波を通した、母性というものをテーマに、
ダシにしてきたなあって事だと思うんですが、
髪がぼさぼさで、壊れた赤ちゃんを抱えている綾波にはゾッと来ました。
これは役割を終えないといけないって、そんな風に想わされる……。
それで最後には”笑って”、立ち去る綾波という、まさに役割を終えた感じで。

個人的には第三村のいかにもコテコテに感動を煽ろうとしてるパートとか、うわぁ中だるみだわぁ、
これこのまま終わったらキツイなぁと思っていて、だからこそ最後の展開に入ってからキタキタキタぁってなる位だったんですが、
でもネットの反応を観ると、ここに反応してる人も居たり。
あれはいかにもありがちな、パンピー的な表現だと思うんですが、
それをかつてオタクの教祖と言われた庵野監督がやるという。
昔だったら絶対忌避していたと思うんですが、
エヴァの初出から25年以上経った今は、そんな足の裏が痒くなるような事もちゃんとやるんだと。
そしてその方面の人にもしっかり答えるんだと。
そこも庵野監督、クリエイターとしての変遷を観る想いでした。


そして何と言っても、やはり自分はEoE(エンドオブエヴァンゲリオン)に囚われた人間なんですが、
そこをきっちりとやってくれただけで、もう嬉しかったですね。
平たく言えば……、俺自身も”終わり”を迎えられたんだと。

しかもEoEの実写パートは言わばギョッとさせようと入れた手法だったのですが、
今回は25年経って、今ならこうする、とより洗練された形でやっていましたね。
一つはCG故に凄く背景を精密に描けて、それが気付かぬくらいゆっくりと、あれ? あれ?
と混ざっていくという。
つまり精緻な手描きの背景だったはずが、恐らく一部に実写が紛れ込ませていた様に見えました。
パッと実写になるんじゃなく、シームレスな実写への切り替え。
これも今でしか出来ない表現なのかなと思いました。
EoEを踏まえた上で、今ならこれが出来る、といっているようで。

表現としては他にも巧みで、
観ている方はかつての構図、きっとシンジ君=庵野監督と投影しがちかと想うんですが、
どこか途中から、そうか、庵野監督も今やゲンドウの歳の方に近いんだよな、と抱かせる所が増えていく。
そしてあの、ユイ、ユイ、ユイ、っていう醜さも老いも隠そうとしない吐露。

そこから、つまりはかつてのEoEという作品そのものの象徴たる13号機が絶望で、
初号機が希望、対になる存在って説明があってね。
あのギョッとする巨大綾波の顔も、あれは明らかに”醜い”物を狙っていると想うんですが、
つまりあれはゲンドウの補完、
他人目線としてEoEを観たらこんなに醜いんだよってのを見せていて。

そしてここでも、EoEでもあった”舞台上の撮影”っていう表現を、
今で出来る新しい表現でやっているという。
これが親子喧嘩なんか、傍から見たらこんなに滑稽なんて要素も兼ねていて。

表現として本当に上手いのは、これらが指し示す事が、それぞれなんとなくシームレスに地続きな事だなぁと。
それぞれの終わり方を示しつつ、でも一本のフィルムとしてシームレス。
だから分からなくても、感動があるのだと思う。

途中までゲンドウ=庵野監督だったのが、最後のマリと付き合うパートではシンジ君に帰っていて、
間違いなく現実の庵野監督の結婚だろうなあと示唆させて、
で最後の出生地の空撮で結んでいますし。
これ普通にやったら主人公誰なんだよ、みたいになる所ですよ、本来は。

滑稽な撮影現場で親子喧嘩するっていう、あの場面がEoEを擦りつつあったからこそ、
それぞれのキャラクタがそれぞれの役割を文字通り降りていく、って所が真に感じられる訳で。
元々暗喩、メタファーが上手だったのが、そのメタファー同士がシームレスに繋がって
読者がなんとなく感じ取れるっていう、技巧が知らしめられていましたね。


……もちろん部分的には、ちょっと3Dの砂嵐のエフェクト多過ぎじゃねとか、いやそれはあんまり……今くらいだと新奇的な効果も無いかなとか、
第三村のパートはコテコテの描写をするにしても宮崎駿監督ならもっと……って、他の天才と比べるなって話ですが、
あと加持さんの過去エピソードは回想みたいな説明で済ますんかいとか、
贖罪を受け入れない仲間の描写とかは必要だろうけど、なんかメリハリ無くて流れたなとか、
もうちょっと上手い事出来たのではみたいのはあったんですが、
恐らくEoEの時の、あの惹き付けて止まない病的な天才性は薄れたかも知れないけど、
でも今の庵野監督には、会社としてのチームワークや、技術、それに長年で培った制作術がある、
それでいま出来る事をする、そういう絵作りのように感じましたね……。

で、それを感じた時、最後の仕掛け、
つまりは最後に庵野監督に帰っていく物語の中身に、
「今」がオーバーラップするように感じられて、これが第三の視点を超越した感動があるのかなぁと。
3Dを最新の表現をと見せていった事さえ、伏線として機能するような。

庵野監督はやっぱりオタクで、最後にそこに向き合うし、
EoEに囚われたオタクを見捨ててなかったんだなぁ、でももうそれも終わり、終わったんだなあ、とか。

まぁ……最後のマリの過去エピソードとか、渚司令とか叩き込まれるのは、ううん?? となって萎えましたが、
あれ漫画の方の設定でもあるんですってね。
つまり漫画の方も意識して、そこでの”終わり”にも向き合ってると。
しまった、そっちも目を通しておくべきだったか……なんて。

そこで思うのはですね……、私個人としては、鬼滅の刃とか進撃の巨人がって比べられても分からないんですよ。
案外、エヴァ以外の最新アニメを観ていない、
まさにあの時代から、サブカルからの寄り道で? エヴァに囚われた人にこそ、響きやすいのかも知れないなっと。


そこで最後に痛感するのは、自分にとってまさに、このエヴァというものは18歳くらいかな、初めて観た時から
ずっと恋焦がれて、「リアル」そのものだったんですが、
恐らく若い子にとってはそうじゃないんだろうなって。
ツィッターとかで反応見ても、そういう予感があるんですよ……。

あの当時、俺の心をあんなに抉ったEoEでさえ、今の若い子は惹き付けられないかも知れない。
このシン・エヴァンゲリオン劇場版の前に、実はEoEの再上映ってのを一部映画館でやってたんですが、
そこで入る実写パートがね、もう20年以上前だから服装が古すぎて、
「当時の記録映像」みたいになっちゃってたんですよ。
本当は「カメラがこっちを映してる」みたいに、ギョッとしないといけない場面なのにね。

あそこで示された様な、人と上手くやれない悩み、孤独と向き合うもの、その美しさっていうのはあると思うんですが、
今の若い子にはもう好まれないかも知れない。
だって今の若い子にはもうスマホがあって、悩むなんて馬鹿らしい、
さっさとコミニュケーション取れば済む話じゃんって事なのかも知れない。
その為の敷居は格段に低くなってる。

そんな馬鹿な、”それが分かっていても、出来ないから”EoEがあるんじゃないのかよって思うんですが、時代の空気感というのは本当に変わっていくもので……。

そりゃ人と上手くやれないなんて悩みは無い方が良いものかも知れないけど、
さりとてあの”美しさ”が無くなる、特に理解されなくなるってのは、どこか寂しい気もしますね……。
あれはもはや自分たちの世代で葬り去る物語なのか、なんて嘆いて見せるのはいかにもオタク的でしょうか。


今回の映画は凄いものですが、同時にEoEも本当に凄かったもので、
そしてやはりそれは若い時、若い世代にしか感じ得ない物なのかなとも思う。

そうした面で、エヴァは恐らくもう今の若い子にはリアルではなくて、
でも悩みがゼロなんて事は絶対に無いと思うんで、
今の若い子の心を救う様な、エヴァ級のコンテンツが出て来たらなと思うんですが。
そして願わくばそれが美しい物であったらなと。

ただ恐らくその時にはもう、その尖り方ゆえに、自分にはもう余り刺さらないんだろうなぁと……。
それで良いんですが。自分みたいな世代に刺さってちゃダメな物なんですが……。

ともかくそんな心と共に、そんな自分たちの世代と共にエヴァは終わった、呪いが解かれた、
でも何故だろう前向きな気持ちよりも、喪失感の方が今は遥かに勝る、
そんな気持ちにさせてくれる、まさしく「終わり」でしたね、あれは……。

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